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大東亜戦争ニュース・2018/6~1 | |||||||||||||||||||||||||||
初めて知った大東亜戦争(日米決戦)の裏側! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・6・25 (1/7ページ) 【野口裕之の軍事情勢】 産経ニュース 日本陸軍の対米決戦条件だった北朝鮮の鉱物 北が油注ぐ米中貿易戦争の火種 |
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「記事抜粋」 ドイツと米国で同じ頃、筆者を驚かせるニュースが流れた。 いずれも“朝鮮半島の核・ミサイルが絡み”だ。 まずはドイツ。 ドイツ検察当局は18日、独自動車大手フォルクスワーゲン(VW)傘下の独高級車メーカー=アウディの会長(兼VW取締役)を逮捕した。 VWは排ガス規制を逃れようと、排ガス量を操作する不正なソフトウエアを世界で最大1100万台のディーゼル車に搭載していた。 検察当局は、会長が不正操作を事前に把握していたとみている。 一方、米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は17日、北朝鮮が昨夏、史上初の米朝首脳会談(12日)の可能性を探るため、シンガポール在住の米国人投資家を通じ米国のドナルド・トランプ大統領の娘婿ジャレッド・クシュナー大統領上級顧問に接触を図っていた、と報じた。 一見して無関係な2つのニュースが、筆者の頭の中で一本につながった。 キーワードは《北朝鮮の鉱物資源》。 米国人投資家の名はガブリエル・シュルツ氏。 シュルツ家はシンガポールに拠点を置く米鉱山会社の経営一族で、モンゴルやエチオピアといったフロンティア市場に投資し、巨万の富を得た。 フロンティア市場は将来、新興市場へと昇格する潜在性を秘める。 対北経済制裁が強化される2016年より前、北朝鮮でも投資を複数手掛けた。 つづく 北の核開発を後押しした中米英独仏露の鉱山投資 トランプ・習両氏の頭上を綱渡りする正恩氏の笑み 中略 米中貿易戦争も絡み、北朝鮮をめぐる米中間の綱引きは激化する。 22日付産経新聞政治面の山田紳氏による政治マンガに、トランプ大統領と習主席の頭上を 「非核は金なり」とほくそ笑みながら綱渡りする正恩氏の姿が載った。 キャプションがふるっている。 《このワザは君の入れ知恵か? いや君の悪知恵だろう》 |
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誇り高き日本人の生き様! |
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2018・6・16 (1/4ページ) 土曜掲載 文化部編集委員 喜多由浩 【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 産経ニュース (23)日本官憲を代表して責を負う 平安南道「最後の知事」が残した回想録 |
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「記事内容」 人間の真価は、ギリギリの土壇場に追い込まれたときにこそ、問われるものであろう。 とりわけ、国を背負って立つ政治家や高級官僚には「覚悟」が求められる。 己の身をなげうって国を、国民を守り抜く覚悟があるのかどうか、だ。 前の大戦末期には、その覚悟もないリーダーが、保身に走ったり、家族を先に逃がしたり、と醜悪な本性をさらけ出してしまった例が少なからずあった。 一方で、“貧乏くじ”を承知で「死地」へと赴き、多数の住民を逃がした後に、凜(りん)として死んでいった最後の官選沖縄県知事、島田叡(あきら)のような人もいる。 同時期に、日本統治時代最後の平安南道知事を務めた古川兼秀(かねひで)も、そんな覚悟を持った官僚ではなかったか。 戦後、残された回想録にはソ連軍(当時)侵攻によって追い詰められた日本人を守ろうとして、あらゆる手段を繰り出した知事の苦闘が綴(つづ)られている。 古川が平安南道知事に就任したのは終戦2カ月前の昭和20年6月。 すでに敗色は濃厚であり、朝鮮北部の中心都市・平壌がある平安南道には不穏なムードが漂っていた。 回想録にはこうある。 《平安南道はキリスト教の本拠と言ってよい地方であって古くからその影響を受けて独立思想が激しい。しかも民族意識が強く凶暴性も秘めており大変だろうとは思った》 実はこのとき、古川は殖産銀行理事や全羅南道知事になる可能性もあった。 《もし家族の意見を聞けば、気候が良くて、内地(日本)にも近い全羅南道を希望したであろうが…、これが最後のご奉公である、とひとり深く期するところがあったのである》 果たして、20年8月9日、ソ連軍は150万を超える大軍で、満州(現中国東北部)へ侵攻。 南下を続け、24日には平壌へ先遣部隊が入ってくる。 ソ連軍兵士や一部朝鮮人による非道な行為、国境からは満州の日本人避難民が雪崩を打って押し寄せ、平壌の混乱は頂点に達した。 ◆幻の●晩植担ぎ出し ◆避難民は引き受けた ※地獄と化した満州と朝鮮半島! ◆避難民は引き受けた 中略 以来、約5年間にわたって抑留生活が続く。 実はこのとき、古川ら3人の幹部のみがシベリア行きの飛行機に乗せられたと思い込み、覚悟を決めた。 回想録にはこうある。 《私たちが日本官憲を代表して責を負い、(シベリアへ)送られたと思い、以(もっ)て瞑(めい)すべし、と考えていた》と。 次男の武郎(たけお)(80)は思う。 「父は、曲がったことが大嫌いだった。青雲の志を抱いて朝鮮へ渡り、私は、すごくいい政治をやったと思う。そして、最後まで それを貫いたんです」=敬称略 ◇ 【プロフィル】 古川兼秀(ふるかわ・かねひで) 日本統治時代最後の平安南道知事(官選)。 明治34年、会津の名刀鍛冶、古川兼定(かねさだ)の家に生まれる(12代兼定の次男)。 旧制一高から東京帝大法学部卒、高等試験行政科に合格し、大正14年朝鮮総督府へ。 黄海道、平安北道警察部長、総督府保安課長、図書課長、咸鏡北道、平安南道知事を歴任した。 昭和20年8月、朝鮮へ侵攻してきたソ連軍に拘束され、シベリアに5年間抑留。 昭和49年、73歳で死去。 駐韓国大使を務めた前田利一(としかず)は女婿(長女の夫)にあたる。 ※反日政府は戦後、教育を通じ愚民・反日日本人を育て、日本人を育てず! 日本政府の戦後政治は、日本人を騙し、愚民政策を実行した結果、愚民に成り下がった敗戦利権知った愚民が政治屋と役人になった。 今は愚民が多くなった日本だが、今の時代も愚民化せず、日本人に育った立派な日本人が、日本国を支えているのであろう。。 日本の現状に早く気付けよ、素晴らしい日本人! |
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玉音! |
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2018・6・2 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 玉音が厳かに告げた終戦 その日、列島は涙に包まれた |
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「記事抜粋」 玉音放送(1) 東京は、からりと晴れていた。 連日の空襲警報もなく、静かに時が流れていた。 昭和20年8月15日正午、ラジオから流れるアナウンサーの声。 「只今(ただいま)より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様、ご起立を願います。重大発表であります」 続いて君が代が奏楽され、玉音が、厳かに終戦を告げた(※1)。 《朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇(ソ)四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ》 《交戦已ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス 戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦(また)我ニ利アラス 加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而(しか)モ尚交戦ヲ継続セムカ 終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ》 《惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス》 つづく × × × このほか、当時の文筆家らは、こんな日記や手記を残している。 「警報。ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおつしやつたら、みんな死ぬわね』と妻が言つた。私もその気持ちだつた。十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であつた。遂に負けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉(せみ)がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」(作家、高見順) つづく 一方、栃木県奥日光のホテルの一室では、学習院の制服姿の少年が一人、ラジオの前に正座し、両手の拳を握りしめながら、玉音の一言一句に耳を傾けていた--。 ※天皇陛下はご無念であらせられる中、よどみなく玉音をご初声になられたと今更ながら驚かされている。 流石、我ら大和民族が誇れる天皇陛下であられる。 ◇ (※1)玉音放送 ポツダム宣言受諾による日本の敗戦を、昭和天皇が国民に直接告げたラジオ放送。前夜に昭和天皇が音読し、録音した「大東亜戦争終結に関する詔書」(終戦の詔書)が、昭和20年8月15日、国内だけでなく外地の在留邦人、日本軍将兵に向けて流された。当日は朝から「正午に重大放送がある」「天皇陛下が自ら放送される」「国民は必ず聴取するように」などの予告がラジオや新聞の特報で告げられ、多くの国民がはじめて昭和天皇の声を聞いた。その一方、戦時下における劣悪な放送環境により、「雑音がひどかった」「あまり聞き取れなかった」とする証言も多い。放送後、積極侵攻作戦中止の大陸令、大海令が発せられ、当時国内に計370万人、国外に計360万人以上の兵力を有していた日本軍は一夜にして銃を置いた。その影響は大きく、公式の戦争終結は降伏文書に調印した9月2日だが、玉音放送が流れた8月15日をもって終戦の日と記憶されることになった ◇ 【参考・引用文献】 ○宮内庁編『昭和天皇実録』34巻 ○内田百●『東京焼盡』(大日本雄弁会講談社) ○中村正吾『永田町一番地』(ニュース社) ○高見順『敗戦日記』(文藝春秋新社) ○桑原武夫編『伊東靜雄全集』(人文書院) ○徳川夢声『夢声戦争日記』5巻(中央公論社) ○永井壮吉(荷風の本名)『永井荷風日記(断腸亭日乗)』7巻(東都書房) ○安岡章太郎『僕の昭和史(1)』(講談社) |
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欧米列強は満州国と台湾、朝鮮半島の統治の違いに脅威を抱いた! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・5・27 ユーチューブ 【海外の反応】外国人衝撃!!「日本は素晴らしい統治をしていた。今より幸せそうに見える…」日本統治下の満州の映像に世界が驚きと感動!! 2018・5・27 ユーチューブ 【海外の反応】海外から衝撃!日本統治下の満州の映像に海外から驚きと感動の声が!「 日本は素晴らしい統治をしていた!」 |
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「コメント」 ナシ ※欧米列強(チャーチル)は大日本帝国の素晴らしい統治システムに白人の植民地政策の酷さに気付き、人種差別撤廃を唱えた大日本帝国を脅威とし滅ぼす決意をしたのである。 欧米列強(ドイツ含む)は蒋介石(毛沢東)を利用し打日本帝国を日支戦争引き込みを指示、罠に嵌った大日本帝国は満州事変、日支戦争と駒を進めざるを得なかったのである。 日本人は満洲人と漢人(シナ人)を確り区別する必要がある。 終戦後、生き別れた日本人孤児を育て上げてくれたのが満州人である。 (2) 「コメント」 1932年から1945年の間、現在の中国東北部に存在した満州国。 満洲国は建国の際、満洲人による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として満洲人・日本人・漢人・朝鮮人・蒙古人による、 五族協和と王道楽土を掲げていました。 満州国建国後、日本資本の導入による重工業化や、日本からの近代的な経済システムを導入した事で急速な発展を遂げ、人口も建国からわずか10年で約1500万人増加しています。 ご紹介する動画では、「日本統治下」の活気ある満州の様子が紹介されています。 外国人から様々な反応が寄せられていましたので、その一部をご紹介します。 今回ご紹介する「焼き場に立つ少年」と題された1枚の写真は、 引用元の動画 Manchuria under Japanese Control: "Manchukuo: The Newborn Empire" circa 1937 Beaux Art Productions https://www.youtube.com/watch?v=tBzm9... |
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特攻 |
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2018・5・27 (1/3ページ) 産経WEST 「我敵艦に必中突入中」打電後、米駆逐艦が大破炎上 米の映像で特攻の最期特定 京都の慰霊祭で上映 |
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「記事抜粋」 鹿児島県の鹿屋基地から零式艦上戦闘機(ゼロ戦)で出撃した特攻隊員の西口徳次中尉=当時(23)=が1945年4月、沖縄近海で米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドに突入した直後に同艦が大破、炎上している状況を記録した約2分半の映像が見つかった。 27日、京都市内で開かれた慰霊祭で上映され、遺族らが73年を経て最期の様子を目にした。 西口中尉の妹前田かよ子さん(80)=兵庫県芦屋市=は 「まさか今になって見られるとは。見つけてくださりありがたい」と見入った。 遺族から依頼を受けた大分県宇佐市の市民団体 「豊の国宇佐市塾」が、米国立公文書館で映像と関連資料を発見。 遺族が持っていた旧海軍の出撃に関する記録と照合し、一致した。 調査した同塾の織田祐輔さん(31)は 「旧日本軍の記録は処分されたものも多く、日米双方の記録から特攻隊員の最期を特定できた珍しい事例だ」としている。 映像はモノクロで、救難するため駆け付けた米艦船から従軍カメラマンが撮影したとみられる。 攻撃を受けたヘイゼルウッドが煙と炎を上げ漂流する様子や、消火活動に当たる場面を記録。 艦橋部分は大破し、甲板上で走り回る乗組員の姿も捉えていた。 西口中尉のゼロ戦の残骸は確認できなかった。 つづく ◇ 「どんな気持ちやったろか」兄の最期に思い 中略 強くハンカチを握りしめながら映像を見た三女西口さよ子さん(78)=同=は「いつも兄を思い出して『負けたらあかん』と自分を奮い立たせていた。最期が見られて良かった」としみじみと話した。 ◇ 【特攻】 爆弾を装着した航空機や潜水艇で米軍などの艦艇に体当たりした旧日本軍の攻撃。陸海軍で部隊が編成された。 戦況が悪化した太平洋戦争末期にフィリピンや沖縄などで本格的な作戦として決行され、人間爆弾とも言われる特攻機「桜花」や人間魚雷「回天」、ボートに爆弾を積んだ「震洋」「マルレ」といった兵器も登場した。 |
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阿南陸相の切腹! |
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2018・5・27 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース クーデターを防いだ阿南陸相の切腹 決起将校も次々と自決した |
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「記事抜粋」 宮城事件(2) 昭和天皇の玉音放送を収めた録音盤を奪取すべく、決起将校に率いられたクーデター部隊が宮城内に軍靴を響かせていた昭和20年8月15日未明、陸軍首脳で唯一抗戦派に理解を示していた陸相の阿南惟幾(これちか)は、大臣官邸の自室で最後の杯を傾けていた。 午前1時半、クーデター計画に関わった義弟の竹下正彦中佐が阿南を決起させようと訪れた。 だが、すでに自決の準備をしているのをみて説得を諦めた。 竹下は日誌に書く。 「(阿南が)平素ニ似ズ飲マルルヲ以テ、アマリ飲ミ過ギテハ、(切腹を)仕損ズルト悪シ、ト云ヒシ所、否、飲メバ酒ガ廻リ血ノ巡リモヨク、出血十分ニテ致死確実ナリト、予ハ剣道五段ニテ腕ハ確カト笑ハレタリ」 × × × 最後まで徹底抗戦を訴えた阿南だが、実は中堅将校らの暴発を抑えるため敢えて先頭に立ったのであり、暗黙のうち終戦工作に協力していたとする説もある。 首相の鈴木貫太郎も戦後、 「若(も)し、彼にして偏狭な武弁であり、抗戦のみを主張する人ならば、簡単に席を蹴つて辞表を出せば、余の内閣などは忽(たちま)ち瓦解(がかい)して了(しま)うべきものであつた」と述懐する。 しかし阿南は内閣瓦解を防ぎ、その職務を全うした。 自決の前夜、阿南は鈴木のもとを訪れ、こう語っている。 つづく × × × 自刃の一報は、すぐにクーデター部隊の将校らに伝わった。 それは、命と引き替えの諫止(かんし)と聞こえたに違いない。 近衛歩兵第2連隊第1大隊長の北畠暢男(のぶお)はのちに、 「この時点で私は、天の時は過ぎたのだ、と覚悟するに至りました」と述懐している。 阿南の自刃により、宮城事件は急速に収束へと向かう。 つづく × × × 一方、首謀者の畑中健二少佐は最後の手段として、クーデター部隊の一部が占拠した東京・内幸町の放送会館に乗り込み、日本放送協会(NHK)報道部の柳沢恭雄副部長に拳銃を突きつけた。 「決起の趣旨を訴えたい。放送させよ。さもなければ撃つ」 だが、柳沢は無言のまま動かなかった。 ここに畑中も決起の終末を知る。 つづく × × × 昭和天皇が宮城事件の顛末(てんまつ)を知ったのは、夜が明けてからだった。 《侍従武官長蓮沼蕃(しげる)は東部軍管区司令官と同道、御文庫に参殿、七時三十五分に単独にて拝謁し、事件の経過並びにその鎮圧につき奏上する。八時、天皇は侍従長藤田尚徳(ひさのり)をお召しになり、事件の発生を嘆かれる》 この日、快晴。 正午がゆっくり近づいていた--。 ◇ (※1)畑中少佐らが殺害した森師団長の遺体は15日早朝、検視もしないまま司令部近くの窪地で荼毘(だび)に付されたが、その理由や経緯については諸説ある。 遺骨は師団長室の隣にあった貴賓室に安置された。 なお、宮城事件で森師団長ら2人が殺害され、畑中少佐ら3人が自決したほか、事件を鎮圧した東部軍管区の田中司令官も9日後の8月24日に自決した ◇ 【参考・引用文献】 ○竹下正彦「機密作戦日誌」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』新装版下巻所収) ○迫水久常『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』(ちくま学芸文庫) ○鈴木貫太郎口述「終戦の表情」(外務省編『終戦史録』所収) ○北畠暢男「玉音盤奪取の偽師団長命令」(『文藝春秋』平成17年9月号所収) ○森下智『近衛師団参謀終戦秘史』(非売品) ○宮内庁編『昭和天皇実録』34巻 ※今の政治家と役人に切腹する覚悟が無さ過ぎる! |
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日本に生まれてよかったでは済まされない「反日利権」が隠れている! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・5・20 ユーチューブ 【衝撃 日本】「日本より中国が可哀そう!?」あの国が反日になった裏には宣教師たちの偏見があった!?【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 |
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「コメント」 ナシ ※綺麗事を言っている場合ではない! この動画に日本の戦後政治の過ちのヒントがある。 パスワードは「反日利権」である。 尖閣を始め沖縄独立と基地問題、アイヌ問題、降って湧いた同和問題、在日韓国朝鮮人問題(憲法違反も生活保護費支給・関西生コン・森友問題)、在日シナ人問題(憲法違反の生活保護費・無資格健康保険)、北方領土問題(南樺太と千島列島→四島)、韓国への経済技術復興支援、シナへの経済技術復興支援+嘘のガス砲弾処理(河野洋平)等は全て同じ根っこであり反日利権である。 これら反日利権に莫大な税金が注込まれ続けているのである。 これぞ皆、戦後から続く反日政策そのもの、日本政府が反日の証、国地方の統治機構そのものが反日利権で構築されているのである。 御世の世であれば、こんな出鱈目な政治と政策をお許しになられただろうか! 目を覚ませ、日本人! |
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耐え難きに耐え、忍び難きに忍び・御聖断を下された天皇陛下! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・5・20 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 「万民の生命を助けたい」…天皇は何度も手袋で眼鏡をぬぐった |
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「記事抜粋」 涙の聖断(2) 《天皇は、国内外の現状、彼我国力・戦力から判断して自ら戦争終結を決意したものにして、変わりはないこと、我が国体については外相の見解どおり先方も認めていると解釈すること、敵の保障占領には一抹の不安なしとしないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなること、これに反し、即時停戦すれば将来発展の根基は残ること、武装解除・戦争犯罪人の差し出しは堪え難きも、国家と国民の幸福のためには、三国干渉時の明治天皇の御決断(※1)に倣い、決心した旨を仰せられ、各員の賛成を求められる》(昭和天皇実録34巻45頁) 昭和20年8月14日の正午前、真夏の太陽が届かない地下10メートルの御文庫附属室で厳かに下された、戦争終結を告げる聖断--。 『昭和天皇実録』には要約しか記されていないが、この聖断の一字一句を、内閣情報局総裁として出席した下村宏が、ほかの出席者の手記やメモとも照らし合わせて戦後に書き残している。 周囲がしんと静まる中、昭和天皇はこう言った。 × × × --外(ほか)に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。 反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。 私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。 つづく × × × 御文庫附属室のコンクリート壁をも震わす玉声。出席者の誰もが泣いていた。 激しく嗚咽(おえつ)する者もいた。 昭和天皇もまた、白い手袋で何度も眼鏡を拭った。 聖断は下された--。 下村は書く。 「陛下は席をたゝれた。一同は涙の中にお見送りした。泣きじやくり泣きじやくり一人々々椅子を離れた。長い長い地下壕をすぐる間も、車中の人となつても、首相官邸へ引き上げても、たまりの間にも閣議の席にも、思い出してはしやくり上げ、涙は止め度もなく流れる……」 ◇ (※1)三国干渉時の明治天皇の御決断 1894~95(明治27~28)年の日清戦争で勝利した日本は、清国との講和条約により遼東半島の割譲を受けたが、これに反発するロシアが領有を放棄するよう日本に勧告。 ドイツとフランスも追随した。 日本は御前会議を開いて対応を協議し、イギリスなどに働きかけて3国の干渉を排除しようとしたが、武力を誇示するロシアの圧力に抗しきれず、遼東半島の返還を決定。 明治天皇が詔勅で国民に告げた。 以後、日本は 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに国力の増強に努め、1904~05(明治37~38)年の日露戦争でロシアの陸海軍を撃破。 三国干渉の雪辱を果たし、アジアの強国となった ◇ 【参考・引用文献】 ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻 ○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社) |
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耐え難きに耐え、忍び難きに忍び・御聖断を下された天皇陛下! |
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2018・5・19 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必見記事! 産経ニュース 前例なき御前会議 陸海軍両総長は泣きながら抗戦を訴えた |
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「記事抜粋」 涙の聖断(1) ※卑怯なアメリカ! 帝都に空襲警報が鳴り響く昭和20年8月13日の夕刻、空から落ちてきたのは、爆弾ではなく紙だった。 「日本の皆様 私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国の政府が申込んだ降伏条件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット連邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します」 翌14日の早朝、米軍機B-29がビラを散布したとの情報を得た内大臣の木戸幸一は愕然とした。 政府の正式発表より前に降伏が広く知られれば、国内は大混乱となり、それに乗じて抗戦派などが暴発する恐れもある。 首相の鈴木貫太郎も、同じ思いだった。 もはや事態は一刻の猶予も許されず、内閣から正式な手続きをとって御前会議を開くのでは間に合わない。 鈴木は急ぎ木戸を訪ね、相談の上、昭和天皇の決心にすがることにした。 以下、『昭和天皇実録』が書く。 《(14日)午前八時三十分、(昭和天皇は)御文庫において内大臣木戸幸一に謁を賜い、米軍機がバーンズ回答(※1)の翻訳文を伝単(宣伝ビラ)として散布しつつありとの情報に鑑み、この状況にて日を経ることは国内が混乱に陥る恐れがある旨の言上を受けられ、戦争終結への極めて固い御決意を示される。引き続き、特に思召しを以て内閣総理大臣鈴木貫太郎及び内大臣に列立の謁を賜う》(34巻43頁) 戦前は「宮中・府中(政府)の別」が厳しく、首相と内大臣が並んで拝謁するのは初めてだ。 昭和天皇もまた、非常の覚悟だったのだろう。 このとき鈴木は、内閣からの奏請ではなく、天皇の意向による御前会議開催を求め、その場で許された。 これも前例のないことだった。 続いて昭和天皇は、在京の陸海軍元帥を宮中に集めた。 《午前十時二十分、御文庫に元帥陸軍大将杉山元・同畑俊六、少時遅れて参殿の元帥海軍大将永野修身をお召しになり、三十分にわたり謁を賜う。終戦の御決心をお示しになり、三名の所見を御下問になる》(34巻44頁)これに対し杉山と永野は徹底抗戦を主張、畑は交渉継続を求めたが、昭和天皇は《戦争終結は深慮の末の決定につき、その実行に元帥も協力すべき旨を仰せになる》(同) × × × 同日午前10時50分、昭和天皇の異例の「思召し」により、全閣僚と陸海両総長、両軍務局長、枢密院議長ら政府軍部の全首脳が御文庫附属室に集められた。 閣僚らは正装する間もなく、まちまちの背広姿だったという。 御文庫附属室は、皇居の地下10メートルにある堅固な防空施設だ。 10トン級の超大型爆弾にも耐えうる構造で、会議室2つ、控室2つが、厚さ1メートルのコンクリート壁で仕切られている(※2)。 中略 「今日までの戦争遂行において、海軍の努力の足らなかったことは認めます。陸海軍の共同も決して十分ではありませんでした。これからは過ちを改め、心を入れ替え、最後の奮闘をいたしたいと思います。本土決戦の準備はできております。いま一度、戦争を継続することをお願い申し上げます」 三人の発言のあと、再び静寂。 しばらくして、昭和天皇が口を開いた--。 ※たったお一人で下された天皇陛下の御聖断、思いを推察すれば、ただただ頭を下げるしかなく、日本人として凄い御方と心の中で感謝するしかないが、天皇陛下のご聖断に大日本帝国皇民が一斉に従った事も凄いし立派である。 皇居前に皇民が平伏し涙を流す写真が頭に浮かんでる。 ◇ (※1)バーンズ回答 国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件とし、ポツダム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答。 対日強硬派で知られる米国務長官ジェームス・バーンズの書簡として発表されたことから、この名がついた。 ポツダム宣言を補足する5つの条項が示されたが、このうち第1項の「天皇は連合軍最高司令官にsubject to(従属)する」と、第4項の「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」との文言が、国体護持の条件を拒絶したとも受け取られ、政府と軍部は大混乱に陥った。 ※政府と軍部の驕りが良く現れている一場面だが、ここに来て嘘つき安倍総理は同じ過ちをやらかし、失政を繰り返している。 嘘つき安倍総理は道化の宴会屋に過ぎないのだろうが、子育てをした経験も無く、己の失政で子や家族に恥をかかせたくないと言う思いも無かろう。 (※2)御文庫付属室 日米開戦前の昭和16年9月、陸軍築城部本部が皇居の吹上御苑内に造営した防空施設。陸軍は当時、昭和天皇の住居を兼ねた地上1階地下2階の防空施設「御文庫」の建設を進めており、それが完成するまでの予備施設として、付属室がつくられた。17年7月に御文庫が完成。 500キロ爆弾に耐えうる構造で、付属室との間に地下道も作られたが、米軍がヒトラーの山荘を10トン爆弾で空襲したとの情報があり、陸軍は20年6~7月、付属室の補強工事を実施。 超大型爆弾にも耐えうる日本最強の防空施設とした ◇ 【参考・引用文献】 ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻 ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会) ○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社) ○池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版) |
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九段会館建て替え始まる! |
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2018・5・13 産経ニュース 昭和史の舞台「九段会館」解体へ着手 遺族会減少 建て替え後も戦争語り継ぐ場に |
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「記事内容」 昭和11年の二・二六事件で戒厳司令部が置かれるなど、昭和史の舞台となってきた 「九段会館」(東京都千代田区)で解体に向けた作業が始まっている。 日本遺族会が運営していたが、老朽化や東日本大震災による天井崩落事故を受けて廃業し、国に返還。 建物の一部を保存し、17階建てビルに建て替えられる。 戦後70年以上たち、遺族の高齢化と減少が進む中、遺族会は新施設に戦争の悲惨さを語り継ぐ場を設ける計画だ。 九段会館は、9年に帝国在郷軍人会が「軍人会館」として建設した。 鉄筋コンクリートのビルに瓦ぶき屋根を冠した 「帝冠様式」と呼ばれる外観が特徴だ。 陸軍の青年将校らがクーデターを起こした二・二六事件で戒厳司令部が置かれ、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)に接収された。 その後、国が遺族会に無償貸与し、32年から遺族会がホテルや結婚式場などを運営してきた。 遺族会会長の水落敏栄参院議員は 「九段会館に泊まって靖国神社に参拝するのが遺族の思いだった。会館は遺族に愛され、心のよりどころでもあった」と振り返る。 平成23年の東日本大震災でホールの天井が崩落し、死傷者が出た。 遺族会は閉鎖を決め、国に返還した。 つづく ◇ 水落敏栄・日本遺族会会長「皿洗いやボーイ… 九段会館は人生そのものだった」 昭和38年に日本遺族会に奉職し、九段会館に配属されました。 当時、戦没者の遺児は「片親」ってことで企業に就職できなかった。 窮状をわかっているから、遺族会が遺児を集団就職させたんです。 団体食堂の皿洗いをやって、宴会係でボーイもやりました。 宿泊部門に回されて、ベッドつくりをやったり。 千葉の寮に寝に帰り、すぐ出勤する日々でしたが、楽しかったですね。 就職できたこともあって。 日本経済もよくなるころだから、満室で、繁盛していました。 結婚式もすごかった。 最高で1日24組やりました。 48年に遺族会の事務局勤務になりましたが、九段会館はまさに自分の生き方ですね。 青春時代から今にいたるまで、私の人生そのものです。 遺族の高齢化で泊まりも少なくなってきたところに、東日本大震災で痛ましい事故がありました。 じくじたる思いですが(営業を)断念しました。 本当は靖国神社に参拝される遺族が泊まるところを確保したかった。 ただ、建て替えでも一部は残るので、ありがたいと思っています。 私は18年生まれで、戦争のことは知りません。 ただ、戦後の苦しかったことは知っています。 食べる物も着る物もなく、戦争がなければ、父親さえ生きていたら、と思いました。 ※今言うか! それはしっかり語り継いでいかないと駄目だと思っています。(談) ※私は縁無く九段会館に足を運んだことは無いが、戦後の統治機構は敗戦史観を利権に変えた。 利権を正当化する為政府(国地方の政治家と役人)は左翼が出版した教科書と日教組の教員を使い嘘の自虐史観を強要し日本人愚民化政策を実行し続けいる。 ネット社会になった日本、国地方の行政は日本人を騙し統治して来たが、多くの嘘が今、バレ始めており、自民党の戦後政治が終焉を迎えつつある。 大日本帝国の素晴らしい戦歴も展示してあったのか? |
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満洲国・ソ連の蛮行を日本人は決して忘れるな! |
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2018・5 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必見記事! 産経ニュース 悲劇の満州在留邦人 婦女子らの列にソ連軍戦車が突っ込んだ! |
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「記事内容」 葛根廟事件 昭和20年8月14日、事件は、満州西北部の興安総省葛根廟(かっこんびょう・現中国内モンゴル自治区)で起きた。 省都の興安が8月10日にソ連軍機の無差別爆撃を受けたため、約4千人の在留邦人は3班に分かれて北方へ避難を開始した。 このうち、約40キロ離れた葛根廟に向かって移動中の約1300人が、14日午前11時40分、草原の中でソ連軍の戦車部隊と遭遇した。 興安総省旗公署参事官の浅野良三に率いられた在留邦人の大多数は、婦女子と老人だった。 約80人の男たちの一部が警戒のため小銃を携行していたが、民間人が避難しているのは誰の目にも明らかだ。 しかしソ連軍は、この避難民に向けて、一斉に銃弾を浴びせた。 生存者らの証言によると、殺戮(さつりく)は凄惨(せいさん)を極めた。 ソ連軍は最初、無抵抗の姿勢を示した浅野を機関銃で射殺(※1)。 続いて戦車14両が避難民の列に突っ込み、婦女子らを轢き殺していった。 戦車は列を通り過ぎてから反転し、再び列に突っ込む。 キャタピラに轢き回された死体が空中に飛んだ。 戦車の攻撃が終わると、歩兵部隊が逃げ惑う避難民をところどころに包囲し、自動小銃で掃射した。 殺戮は、一時間以上にわたって続いたという。 × × × 当時、興安に居住し辛くも難を逃れた元日銀副総裁の藤原作弥氏が、生存者の手記や体験談を著書に掲載している。 「やがて戦車の群れは止まり、中から何人ものソ連兵がおりてきて、倒れている人や逃げまどう人々を片はしから撃ち殺していきました。一人の兵隊は、私たち子供の馬車までやってきて、病気で寝ていたおじいさんを引きずり出し、自動小銃で頭を撃ち抜きました」(在満国民学校で当時1年生だった男性) 「壕の先の方で女の人が三十人ぐらい集まり、子供たちを真中にして、泣きわめいていました。それを見つけた(ソ連軍の)女兵士は、何人かの男の兵隊を呼んできて、一緒にダダダダ…と続けざまに撃ちました。一人残らず倒れるまで撃ちました」(当時2年生だった女性) 「戦車が、撃ち殺された母をまた轢いて、押しつぶしていきました。あの恐ろしい場面を私は昨日のように覚えています。あの気の遠くなるような広い広い草原を、妹とただ二人。淋しさと恐しさと飢餓の中で、はいずりまわったのでした。…(あとはもうお許しください。書けません)」(匿名の手記) 地獄は、ソ連軍が去っても終わらなかった。 × × × 旧厚生省引揚援護局の調査によると、この事件の推定死者数は約1000人。 だが、このうちソ連軍による殺戮は約600人で、残りの約400人は集団自決などの犠牲者だとされる。 敵に囲まれた草原で、孤立無援の在留邦人が味わった恐怖、絶望はどれほどだったか。 生存者の一人はこうつづっている。 「ソ連兵の殺戮(さつりく)に続いて、生存者がこの世を儚(はかな)み自殺する者が続出しました。お互いに刃物を握り、一、二の三と叫んで刺し違えて倒れていく姿には鬼気迫るものがあり、残酷でこの世の出来事とはとても思えませんでした。(中略)親が子供の首に紐をかけて殺しているのが目に映りましたが、子供の手は虚空を掴(つか)み、足をばたつかせて動かなくなっていきました」…… 夜になると、今度は近在の農民らが、暴民となって生存者を襲った。 「ふっと気が付くと、何時の間に近づいて来たのか、麻袋を担ぎ大きな丸太ん棒を持った満人がいきなり雅ちゃんの着ていた外套を奪おうとしていました。私が必死で抵抗しますと、持っている丸太ん棒で私を叩くのです。どうする事もできません。為すがままです。一人が去ったかと思うと、又別のが来ます。(中略)その麻袋はどれもこれも大きく膨れています。死人の着物だけでなく、生きている人の着物もみんな剥ぎ取ってしまったのでしょう。私達は全裸にはなりませんでしたが、中には全裸にされ、コーリャンの葉っぱで覆っていた人も居たそうです」…… 一方で、親を失ってさまよう子供たちを救い、わが子同然に養育した中国人が多数いたことも、忘れてはならない。 ※シナ人とあるが満洲人だろう。 × × × ところでこの間、在留邦人を守るはずの関東軍は何をしていたのか。 ソ連軍侵攻前、省都の興安は3個師団を有する第44軍に守られていた。 しかし8月10日、関東軍総司令部は、興安の邦人を残して第44軍を首都新京や奉天に後退させる命令を下す。 同軍はこれを邦人に知らせぬまま、秘密裏に移動を開始した。 事件当時、興安周辺は無防備状態だったのだ。 関東軍の方針は、在留邦人を犠牲にしてでも全軍を後退させ、長期持久戦に持ち込むというものだった。 このため在留邦人の逃避行は悲惨を極め、葛根廟と類似の事件が各地で起きた(※2)。 防衛庁編集の公刊戦史が、悔恨を込めて書く。 「最後の対ソ防衛戦における在満居留民の動態は、我が国の歴史上類例のない大悲劇であり、それはまた統帥との相関性についても大きな問題として残されている……」 地上戦に巻き込まれ、文字通りの“地獄”に突き落とされた満州の在留邦人。 凄惨な被害が刻一刻と拡大する中、東京では、最後の御前会議が始まろうとしていた--。 ◇ (※1)邦人避難のリーダー役だった浅野良三参事官はソ連軍に射殺される直前、馬上で刀を抜いたとする説もある (※2)葛根廟事件のほか終戦前後に起きた虐殺事件では、1945(昭和20)年8月13日に南満州鉄道(満鉄)の避難列車が満州・吉林省の小山克(しょうさんこく)で暴民に襲撃され、多数の邦人婦女子が強姦、虐殺されたうえ、100人以上が集団自殺に追い込まれた小山克事件。 戦後の1946(昭和21)年2月に旧満州・通化市で、民間の邦人約2千人が中国共産党の八路軍と朝鮮人民義勇軍に虐殺された通化事件などがある ◇ 【参考・引用文献】 ○興安街命日会編『葛根廟事件の証言 草原の惨劇・平和への祈り』(新風書房) ○藤原作弥『満州、少国民の戦記』(新潮社) ○田中忍「血涙」(『葛根廟事件の証言』所収) ○佐藤百合枝「葛根廟事件からの生還」(同) ○佐村恵利編『あゝホロンバイル 元満洲国興安総省在住邦人終戦史録』(非売品) ○防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社) |
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満洲国・関東軍! |
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2019・5・12 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース タトヘ逆臣トナリテモ… 陸相に“決起”迫る強硬派将校 |
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「記事抜粋」 クーデター計画 中略 まさしく阿南は西郷隆盛のように苦悩し、葛藤し、逡巡(しゅんじゅん)していた。そして翌朝、決心が持てぬまま行動に出る。 × × × 以下、昭和天皇実録が書く。 中略 彼らの思想は、「狂信的」の一言で断罪できるものではないかもしれない。 ただ、彼らは知らなかっただろう。 地上戦に巻き込まれた民間人がみる地獄を。 その地獄がこの日、この瞬間、満州の広野で起きていた--。 ※外地の満州の地で、穏やかな日本人と満州人は別にして、野蛮で異質なシナ人と朝鮮人が入り乱れる中、そもそも、帝国軍人・関東軍が始末の悪いシナ人と朝鮮人、ロシア軍を前に平然と構えていられる状況にあったのか? 当時は軍人が胸を張り闊歩していた日本、政治家と役人は満州国の状況を把握していたのか? 少々疑わしいのだが・・・ ◇ (※1) 南洲翁こと西郷隆盛は、明治10年の西南戦争で旧薩摩藩士にかつがれて挙兵し、政府軍に敗れ自刃した。 明治維新の元勲であり、皇室尊崇の念が強かった西郷だが、挙兵により「逆賊」とされ、官位を褫奪(ちだつ)された。 しかしその後、西郷をしのぶ明治天皇の意向もあり、明治22年の大赦でゆるされて正三位を追贈された。 (※2) ノモンハン事件は1939(昭和14)年5~9月、満州とモンゴルの国境で発生した関東軍とソ連軍の軍事衝突。 不拡大方針をとる日本政府と陸軍中央に対し、関東軍は作戦参謀の辻政信らを中心に越境攻撃を計画、独断専行した。 だが、ソ連軍の猛攻を受け、結果的に計1万7400人余の死傷者を出して敗退した(のちにソ連軍も大損害を受けていたことが判明)。 それ以前にも関東軍は一部将校による独断専行が多く、陸軍中央はノモンハン事件後に人事を一新。 二・二六事件後の粛軍に尽力した梅津美治郎を軍司令官とした。 梅津はその任を果たし、以後、関東軍の統制違反はほとんどなくなった。 ◇ 【参考・引用文献】 ○竹下正彦「機密作戦日誌」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』新装版下巻所収) ○林三郎「終戦ごろの阿南さん」(雑誌『世界』昭和26年8月号) ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻 ○雑誌『世界』昭和26年8月号所収の高木惣吉「連合軍進駐の前後」 ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)所収の「大井篤手記」 |
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アメリカから洗脳された戦後のフィリピン人! |
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2018・5・10 【海外の反応】「日本はアジアの○○○だった」悪名高い日本軍の真実を表す1枚の写真が外国人に大反響! |
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「コメント」 ナシ ※多くの投稿あり! |
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日本国が今あるのも天皇陛下のお蔭! |
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2018・5・5 (1/5ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜に掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 首相を改心させた「陛下の思召」 風は終戦派に吹き始めた |
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「記事内容」 バーンズ回答の衝撃(5) 即時終戦につながるバーンズ回答を受諾せず、占領地域の限定など新たな条件を再照会して 「(連合国側が)聞かれざれば戦争継続もやむを得ない」と発言した首相、鈴木貫太郎の“変心”-。 もはや最後の頼みは昭和天皇しかいないと、皇居へ車を急がせる外相、東郷茂徳は、車中でぐっと拳を握りしめていた。 昭和20年8月12日の、夜の帳(とばり)が下り始めた頃である。 それより前、閣僚懇談会の散会後に東郷は鈴木と面談し、 「首相の意見には納得しがたい。自分は単独上奏するかも知れない」と非常の決意を伝えていた。 それを今、実現しようというのだ。 ただ、内閣が再照会論で固まりつつある中で反対意見を単独上奏すれば、仮に昭和天皇の支持を得られたとしても、閣内不一致が露見し内閣崩壊の危機に直面する。 皇居についた東郷は、まずは内大臣の木戸幸一を訪ねて相談した。 木戸は、昭和天皇が即時終戦の決意であることを誰よりも知っている。 鈴木の変心と東郷の決意に驚きつつも、 「陛下の御意図は、最早(もはや)お伺いするまでもなくきまっておいでであるから、自分から鈴木首相を説得しよう」と言って単独上奏を思いとどまらせ、鈴木に面談を申し入れた。 このとき鈴木は、抗戦派に押されて再照会論を表明してしまったことに、内心は揺れていたようだ。 木戸の面談要請を渡りに船と、自ら皇居を訪れた。外務省編集の『終戦史録』によれば、 「内府(木戸)は、このとき陛下の思召(おぼしめし)として、外相の意見通り進むを可とする旨を述べた模様である。首相は、思召と聞いて早速賛意を表した」 × × × ちょうどその頃、中立国の在スイス公使から、ポツダム宣言受諾をめぐる連合国の正式回答が外務省に入電した。 未明に傍受したバーンズ回答と同一の内容である。 つづく × × × 終戦派と抗戦派が水面下で動く中、13日午前9時から始まった最高戦争指導会議は、即時受諾を主張する外相を首相と海相が支持し、国体護持などについて再照会すべきと訴える陸相を陸海両総長が支持するという、3対3の意見の応酬で膠着(こうちゃく)状態となった。 だが、即時受諾論に分があったといえよう。 昭和天皇という、見えない1票があったからだ。 午後3時まで断続的に続いた会議の途中、昭和天皇が外相を宮中に呼んだ。 《午後二時二十分、(天皇は)御文庫において外務大臣東郷茂徳に謁を賜い、昨日午後の閣僚懇談会以来のバーンズ回答をめぐる審議の状況につき奏上を受けられる。天皇は外相の主張に支持を表明され、首相にもその旨を伝えるよう仰せられる》(昭和天皇実録34巻42頁) 風が、再び終戦派に吹きはじめた-。 ◇ 最高戦争指導会議 政府と軍部のトップが連絡調整を強化し、一元的な戦争指導を行うための会議。 構成員は首相、外相、陸海両相、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)で、戦争指導の根本方針を策定した。 ただし公式の決定機関ではなく、最終的には閣議決定などが必要だった。 ※日本政治を具に観察していると、相当、乱れているが、天皇陛下は今の日本の政治状況をどうお思いだろうか? もし、天皇陛下が今、日本国を率いている場合、緊張感無き愚民政治家始め愚民役人から構成される日本の統治システム(機構)が、今程、乱れたであろうか? 日本の統治機構は戦後、一貫し国と日本人を壊し続けている訳だが、世界が今、注目し憧れている日本国を税金を貪り続けている輩が創っていると大きな勘違いをしている。 税金を貪る輩は愚策ばかり実行しているが、尻拭いは皆、日本人に押し付け知らん顔、余りにも無責任である。 日本人はアメリカの反トランプ勢力から押し付けられた嘘歴史を史実に戻す迄、苦難の道が続くのである。 覚悟せよ、日本人! |
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感謝される大日本帝国皇軍兵! |
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2018・4・29 ユーチューブ 【感動】何と!インド首相が来日し、99歳の日本人老紳士にした事が驚愕と感動を呼ぶ・・【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 |
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「コネント」 ナシ ※多くの投稿あり! アジアはシナと朝鮮半島だけではない。 多くのアジアの国々は日本国に今も感謝の念を忘れずにいる。 これが靖国に眠る英霊の力、今も日本国と日本人をお守りくださっているぞ! |
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危機に晒された国体! |
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2018・4・29 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 首相が変心! 外相は天を仰いだ 「もはや陛下しかいない…」 2018・4・28 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 枢密院議長が首相に横やり 「これでは国体護持が保証できない」 (2) |
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「記事抜粋」 バーンズ回答の衝撃(4) 昭和20年8月12日午後3時、首相の鈴木貫太郎は閣僚懇談会を招集した。 ポツダム宣言受諾をめぐる連合国回答(バーンズ回答)への対応を協議するためである。 席上、回答を受け入れるべきと主張する外相の東郷茂徳に対し、陸相の阿南惟幾(これちか)が反論した。 「このまま回答を受け入れれば日本が唯一絶対の条件とする国体護持が不安であるから再照会すべきである。あわせて自主的武装解除と占領地域の限定についても照会すべきである」 東郷は断固反対した。 「再照会すれば、連合国は日本の終戦決意を疑い、交渉の糸口が切れてしまう恐れが大である。その上、聖断により受諾条件としないことになった自主的武装解除などを今になって持ち出すのは、自ら交渉を打ち壊すことと同じだ」 このとき、東郷にとって予想外だったのは、内相の安倍源基と法相の松阪広政が発言を求め、阿南の再照会論を支持したことだった。 聖断が下される前の臨時閣議で東郷と阿南が衝突した際、大半の閣僚は東郷を支持したが、バーンズ回答がもたらされた後の閣僚懇談会では、空気ががらりと変わっていたのだ。 東郷は閣僚懇談会を中座し、外務次官の松本俊一に電話をかけた。 「形勢はすこぶる悪い」 × × × 東郷をさらに追い詰めたのは、同志と頼んでいた首相、鈴木の変心である。 閣僚懇談会の終盤で鈴木は、こう言って議論を締めくくろうとした。 「この回答文では、国体護持が確認されないし、また、武装解除も全く先方の思うままにされるのは軍人として忍びないから、再照会してみよう。もし、聞かれざれば、戦争を継続するもやむを得ない」 つづく × × × 中略 以後、東郷を中心とする終戦派は巻き返し工作に奔走する。 連合国の正式回答の公電は同日午後6時頃に届く見込みだったが、これを翌13日朝に届いたことにして時間をかせいだ。 それでも猶予はあと半日しかない。 東郷は車に飛び乗り、皇居へ急がせた。 もはや最後の頼みは、昭和天皇しかいなかった-。 ◇ 連合国回答とバーンズ回答 国体護持を唯一絶対の条件とし、ポツダム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答は、中立国の在スイス日本公使と在スウェーデン日本公使に手交され、昭和20年8月12日午後6時過ぎ、両公使からの電報が外務省に入電した。 だが、それより前の同日午前零時、米国務長官ジェームス・バーンズの書簡として、この回答の内容が米サンフランシスコのラジオ放送で発表され、それを外務省などが傍受。 「天皇は連合軍最高司令官にsubject to(従属)する」などの文言があったことから、政府と軍部は大混乱に陥った。 (2) 「記事抜粋」 バーンズ回答の衝撃(3) 「国体護持」を唯一絶対の条件としたポツダム宣言受諾をめぐり、終戦派と抗戦派を再び衝突させた、連合国のバーンズ回答-。 国内外の戦争被害が急拡大する中、これほど日本の首脳部を揺るがせた混乱要因はないだろう。 終戦派の本丸、外務省の解釈はこうだった。 バーンズ回答の第1項に書かれた 「天皇は連合軍最高司令官にsubject toする」のsubject toは 「制限の下に置かれる」の意味であり、降伏すれば当然主権は制限されるのだから、一般的なことを明記しただけで国体の変更を要求したものではない。 また、第4項に 「最終的な日本の政治形態(The ultimate form of government of Japan)は日本国民の自由に表明する意思により決定される」とあるのは、連合国が日本の好まない政体を押し付ける意図のないことをアメリカ流に表現したまでで、やはり国体の変更を要求したものではない-。 この解釈を、当初は首相の鈴木貫太郎も受け入れた。 だが、思わぬ人物から横やりが入る。 枢密院議長の平沼騏一郎が、バーンズ回答では国体護持が保証できないと、鈴木に向かって強硬に主張したのだ。 中略 事実、平沼の横やりを受けた鈴木は、直後の閣僚懇談会で、すべてを振り出しに戻すような発言をしてしまう-。 |
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日本国をお守りくださった天皇陛下(守護神)! |
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2018・4・21 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必見記事! 産経ニュース 激高する軍部 天皇は「至極冷静に」対応した |
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「記事抜粋」 バーンズ回答の衝撃(1) 昭和20年8月10日、昭和天皇の聖断により、 「国体護持」を唯一の条件として米英中ソに発信されたポツダム宣言受諾の緊急電報-。 その回答が、12日に返ってきた。 「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官にsubject toする…」 外務省に、激震が走った。 (be)subject toの意味は「支配下にある」、もしくは「従属する」だ。 これを直訳すれば抗戦派が激怒するに違いない。 つづく × × × なぜアメリカは、日本側が受け入れがたい回答をよこしたのか。 実は、日本からのポツダム宣言受諾電報について米大統領ハリー・トルーマンが側近らと協議した際、陸軍長官ヘンリー・スチムソンと軍事顧問ウィリアム・リーヒーは国体護持の条件を承認すべきだと主張した。 これに対しバーンズが、日本側が持ち出した条件を受け入れる形はとりたくないとして、自らペンをとって回答文を起草したのだ。 つづく 【参考・引用文献】 ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻 ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会) ○迫水久常『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』(ちくま学芸文庫) ○河辺虎四郎『市ケ谷台から市ケ谷台へ 最後の参謀次長の回想録』(時事通信社) ※アメリカは東京国際軍事裁判判決により、アメリカ軍の戦争犯罪を全て嘘で覆い隠し、今に至っている。 アメリカ人は大東亜戦争の真実を知れ! アメリカ人は嘘が罷り通る社会が気持ちが悪くないのだろうか? |
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※ 政治問題 ※ 動画が示す先に反日日本政府あり! 英霊の皆さんへ! 近い将来、必ず日本人が汚名を濯ぎます! |
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2018・4・27 ユーチューブ 【感動】「満州は中国ではない!」日本軍を擁護する海外の人が作った動画が正論過ぎる!【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 2018・4・21 ユーチューブ 【感動】現在の中国で「満州国独立を!」再建を願う親日本的な人々の願いが・・【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 (2) 2018・4・21 ユーチューブ 【衝撃】中国であの時の真実が!日本軍はなぜ巻き込まれたのか?事実が明らかに・・【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 (3) 2018・4・19 ユーチューブ 【感動】「同じインド人として誇りに思う」東京裁判でのパル判事に対する海外の反応が・・【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 (4) 2018・4・19 ユーチューブ 【感動 真実】「日本はなぜ?・・」歴史を知らない中国人へ向けた記事が・・【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 (5) 2018・4・18 ユーチューブ 【感動 衝撃】もし日本が戦ってなければ・・禁断のタラレバが衝撃的すぎる!【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 (6) 2018・4・9 ユーチューブ 【感動】「日本は今でも祖国なんだ」台湾の高砂義勇隊の逸話をいつまでも胸に・・【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった |
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「コメント」 ナシ ※多くの投稿あり! 満洲国は満洲人の国、シナではない! (2) 「コメント」 ナシ ※多くの投稿あり! (3) 「コメント」 ナシ ※多くの投稿あり! (4) 「コメント」 ナシ ※多くの投稿あり! (5) 「コメント」 ナシ ※多くの投稿あり! シナ大陸のプロパガンダは親シナの日本人の嘘が始まりである! そもそも清王朝の皇帝溥儀はシナ人を統治する事が馬鹿馬鹿しくなり、皇帝の座を自ら捨て満洲に戻ったのである。 この事でシナ大陸に続いた様々な民族が統治した王朝が滅んだのである。 溥儀の帰郷を辛亥革命と讃えたのが馬鹿な日本人である。 ここから民族が異なる漢人の蒋介石(国民党)が南京に建国した中華民国、国共内戦を経て、毛沢東(共産党)が建国したのが中華人民共和国と続き今に至る訳だが、この一連の勃興を中国と言えるのか? 中国と言い替えたのも馬鹿な日本人との説がある。 中国は4,000年の歴史と言うが、これも大嘘、シナ大陸に今、存在するのは中華人民共和国、建国は1949年10月1日、未だ68年の浅い歴史しか持たないのである。 シナは人類の敵、日本の唯一の敵と日本人は知れ! (6) 「コメント」 ナシ ※多くの投稿あり! 日本人よ、大東亜戦争の真実を知れ、そして、日本人である事を誇れ! 日本人がシナ人や朝鮮人、アメリカ人の様な卑劣な噓つき民族なのか? 大和民族は世界で最も慈愛に溢れた気品ある民族である事実を知れ! 英霊の皆さんへ! 反日日本政府が戦後実施した日本人愚民化政策の一端である嘘を用いた自虐教育により愚民化が進んでいますが、日本はネット社会の到来で、多くの日本人は政府の洗脳から目覚め始めています。 近い将来、必ず日本人が英霊の皆さんの汚名を濯く時が来ます、もう暫くお待ちください! (7) 「コメント」 ナシ ※台湾人(高砂族)皆さん、日本人は台湾人の皆さんに恩返ししなければと常々考えています。 日本政府は終戦後、身動きが取れず、台湾人の皆様に弁解すらせず放置し続けている事、日本人として誠に申し分けなく思っております。 非礼をお許しください。 ご存知の通りアメリカが動きました。 日本もキット動きます。 もう暫くお待ちください! |
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大東亜戦争・日本人は真実の歴史に学べ! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・4・25 DHCTV 日本人必見動画! 2018・4・18 DHCTV 馬渕睦夫『和の国の明日を造る』第89回 「テーマ:シリア攻撃 / 日米近代史② 【支那事変の真実】-アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか-」 |
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「放送内容」 外交官として世界各国を見て来た 馬渕睦夫元大使が語る“日本温故知新”―。 「日本人であることの意味」を振り返り、日本の未来を指し示します。 【2018年4月25日(水)20:00〜21:00】 ・ちょっと気になるニュース ※朝鮮半島情勢 ・歴史を共に学びなおす ・テーマ:「日米近代史③ 【ルーズベルト大統領のアメリカ】-アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか-」 ・質疑の時間 ★質問の当日受付はしておりません★ 出演:馬渕睦夫 ※真珠湾攻撃前に最後通牒の提出に関し、未だ隠されている気がしてならない。 ※ 疑問 ※ 1)野村大使と在米日本大使館の動きが未だ明かされていない。 GHQ占領下の日本で野村大使はGHQから重用された事実もあり、民間に天下りもしている。 野村大使が本物の日本人であれば、自ら詰め腹を斬り、詫びてもいい身の処し方もあったと思う。 2)日本政府はハルノートを受け取った時、何故、アメリカ政府orハルに電話でハルノート内容を確認しなかったのだろうか? 以上2点がどうしても答えが探し出せない。 戦後の日本政府は敗戦史観、戦後復旧が終わると、敗戦史観を利権化し、今日に至っており、戦後一貫して日本人愚民化政策を実行し続けている。 東大は共産主義者の巣窟、役人は東大文系卒、これも利権、財務省は東大卒の反日役人が出世頭である。 嘘つき安倍政権下、日本政府のまやかした今バレている最中である。 目覚めよ¥、日本人! 馬渕睦夫大使、長い間、ご苦労様でした。 今後とも、日本人をご指導願います。 益々のご活躍をお心よりお祈りしております。 (2) 「放送内容」 【2018年4月18日(水)20:00〜21:00】 ・ちょっと気になるニュース【シリア攻撃】 ※アメリカの旧政権側の偽旗作戦と言及! ・歴史を共に学びなおす ※日本人必見! ・テーマ:「日米近代史② 【支那事変の真実】-アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか-」 ※日本人必見! ※大日本帝国va国際金融勢力(USA)+コミンテルン+蒋介石(間抜け)英米ソが蒋介石潰しに大日本帝国が利用された! 蒋介石が1935実施したシナ幣制改革(銀の搾取)アメリカ銀の高騰 1936西安事件=抗日共同作戦(勝利者は毛沢東) 米英ソのシナ共産化策 新自由主義者の嘘つき安倍総理は親シナと反トランプ勢力の単なる神輿、単に利用されているだけだが、何時、転向するのだろうか? 嘘つき安倍総理は未だ、馬渕大使が主張する時代の転換に気付いていない! ・質疑の時間 ※賢者は歴史に学ぶ! 守銭奴が過去を悔い改めるだろうか? 日本列島は日本人の国、日本国は日本人が良くすると心せよ! 日本はトランプ次第だが、トランプが勝利した暁には大きく変わる可能性がある。 習金平 通貨発行権を国民の手に・・・ 日本銀行の株式の公開をしろ! ★今回は質問の当日受付はしておりません★ 出演:馬渕睦夫 ※早く出てこい日本人の心を持つ政治家! |
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反トランプ勢力が仕掛けた大東亜戦争の一幕ヤルタ会談密約! |
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2018・4・17 (1/3ページ) ロンドン=岡部伸 産経ニュース ヤルタ密約 チャーチル英首相、ソ連対日参戦1カ月前に情報漏らす ソ連への千島割譲、英連邦4カ国に |
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「記事抜粋」 ソ連に対日参戦の見返りに日本領土だった南樺太と千島列島を割譲するとした「ヤルタ密約」を3巨頭の一人として署名したチャーチル英首相がソ連侵攻1カ月前の1945年7月、カナダ、オーストラリアなど英連邦4カ国首脳に密約内容を極秘に明かしていたことが、英国立公文書館で見つかった英外交電報で分かった。 同年2月に交わされたヤルタ密約は、ロシアがソ連時代から、日本固有の領土である北方領土の領有を主張する最有力根拠としてきたが、北方四島を含む千島列島のソ連領有に懸念を抱いたチャーチルが英連邦主要国に警戒を促したことをうかがわせる。 電報は1945年7月5日付。チャーチルから英自治領省(ドミニオン・オフィス)経由でカナダ、豪州、ニュージーランド、南アフリカ4カ国の首脳あてに送られた。 駐重慶カナダ大使が中国政府筋から得たとする 「ソ連は対日参戦の見返りに、クリール(千島)、南樺太、南満州鉄道、旅順、大連を得る」との情報について、カナダのキング首相が6月27日付で照会したものにチャーチル自らが回答した。 つづく ※大東亜戦争を仕掛けた反トランプ勢力の下僕に成り下がっているのが新自由主義者である嘘つき安倍総理、嘘つきが重用している竹中平蔵や小泉元総理、息子の進次郎、財務省始め役人も同類である。 日本は自民党始め野党、国地方の役人が日本を壊そうとしているのである。 |
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無念の関東軍(日本人)! |
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2018・4・14 (1/3ページ) 【昭和天皇の87年】 日本人必読記事! 産経ニュース 玉音放送を謀略と判断 壮絶な死闘の末、要塞は静寂に包まれた |
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「記事内容」 関東軍最後の戦い(3) 昭和20年8月9日未明にソ連軍が満ソ国境の虎頭要塞を急襲した際、守備隊長の西脇武大佐は作戦主任参謀らを連れ、牡丹江(ぼたんこう・現中国黒竜江省牡丹江市)の第5軍司令部に出張中だった。 この西脇が要塞にいれば、戦況は違った展開をたどっただろう。 和歌山藩剣術指南役の家柄に生まれた武人で、部下からの信頼が厚かったと伝えられる。 第5軍司令部でソ連軍侵攻を知った西脇は9日午前、偵察機を手配して虎頭に近い東安飛行場まで戻り、そこから守備隊に復帰しようと八方手を尽くしたが、すでに要塞はソ連軍の重包囲下にあり、果たせなかった。 西脇はその後、東安の第135師団司令部とともに行動せよとの命令を受け、17日、要塞より早く停戦する。 まだ部下が戦っているのにと、やり切れない思いだったのではないか。 戦後は中国共産党から指揮能力を高く買われ、戦術指導役として八路軍に加わるよう再三要請されたが、西脇は首を縦に振らなかった。 断ればどんな運命が待ち構えているかを知らなかったわけではあるまい。 23年10月31日、西脇は八路軍兵士に連行され、そのまま消息を絶った。 × × × 話を戦況に戻そう。 つづく ※日本人が今、東京国際軍事裁判の不当性を語れるのも、靖国に眠る先人のお蔭である。 現時点では未だ無理だが、将来、何時の日か、先人が嘘で濡れ衣を着せられた汚名を晴らされん事を願っている。 日本人は卑劣な共産主義者であるシナ人と満州人とシナ人を確り区別する事も忘れまいぞ! |
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東京大空襲の戦争犯罪から逃れたフランス文学本! |
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2018・4・13 (1/3ページ) 産経ニュース 空襲から蔵書守った書斎公開 仏文学者「鈴木信太郎記念館」開館 東京・豊島 |
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「記事内容」 東京都豊島区内にあるフランス文学者、鈴木信太郎(1895~1970年)が住んだ旧鈴木家住宅が整備・改修を終え、 「鈴木信太郎記念館」として開館した。 戦前の個人住宅には珍しい鉄筋コンクリート造の書斎は、信太郎が集めた貴重なフランス文学書を戦災から守った価値あるものだ。 信太郎は東大で大正10年から20年以上にわたってフランス文学を担当し、フランス近代の象徴派詩人、ステファヌ・マラルメやフランソワ・ヴィヨンを中心とした中世文学の研究に功績を残した。 旧鈴木家住宅は、昭和3年建築の鉄筋コンクリート造の「書斎棟」、21年建築の「茶の間・ホール棟」、明治20年代の建築で、昭和23年に鈴木本家(現埼玉県春日部市)より移築した書院造の「座敷棟」という、建築年代・構造の異なる3棟で構成されている。 書斎棟を鉄筋コンクリート造にしたのは、大正時代、信太郎がパリ留学中に購入した貴重な書籍約1千冊が、帰国時に載せた船の火事で焼失した経験があったためだという。 つづく |
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大日本帝国を大東亜戦争に引き込んだアメリカの共産社会主義者達! |
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2018・4・11 DHCTV 日本人必見動画! 馬渕睦夫『和の国の明日を造る』第88回 「テーマ:日米近代史① ウィルソン大統領時代のアメリカ(アメリカはなぜ日本を敵国としたのか)」 |
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「放送内容」 【2018年4月11日(水)20:00〜21:00】 ・ちょっと気になるニュース ※英語教育より日本語教育が重要! シリアの毒ガス攻撃は嘘! 朝鮮半島問題はトランプ大勝利! 反トランプ勢力に妥協 ・歴史を共に学びなおす ・テーマ:「日米近代史① ウィルソン大統領時代のアメリカ(アメリカはなぜ日本を敵国としたのか)」 ※日本政府が隠す大日本帝国のシべリア出兵の真実! 日米(日本を妨害)の出兵理由が真逆、日本政府が隠しているソ連共産パルチザンによる日本人大虐殺。 ・質疑の時間 ★今回は質問の当日受付はしておりません★ 出演:馬渕睦夫 |
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大日本帝国に悲劇を齎した人種差別主義者・ウィンストン・チャーチル | |||||||||||||||||||||||||||
2018・4・10 (1/3ページ) 【東京特派員】 産経ニュース チャーチルの雄弁が鼓舞して勝利をもぎ取った 湯浅博 |
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「記事内容」 やはり、この映画だけは見逃すわけにはいかない。 戦後の宰相、吉田茂の軍事顧問、辰巳栄一元中将が尊敬する英首相「ウィンストン・チャーチル」を描いた映画だ。副題に「ヒトラーから世界を救った男」とのキャッチコピーがついている。 日本人の辻一弘さんが、米映画界の栄誉、アカデミー賞のメーキャップ部門で受賞して話題にもなった。 辻さんの凄腕(すごうで)により主人公になりきるゲイリー・オールドマンが、首相就任の前日からの27日間の試練の日々を演じる。 不思議なことにこの映画には戦争映画に欠かせない戦闘場面が一つもない。 むしろ、政治家の雄弁がいかに英国民を鼓舞し、前線の兵士に勇気を与え、独裁者ヒトラーから第二次大戦の勝利をもぎ取ったかを教えてくれる。 ロンドンの地下にある戦時内閣執務室での融和派との確執や、英国議会での演説は圧巻だ。 物語は1940(昭和15)年5月、ドイツ軍がベルギーに侵攻して戦火が欧州全域に広がるところから始まる。 独仏国境にあるマジノ線は、防空に弱いうえ、ベルギー方面に迂回(うかい)されては役に立たない。 英国の海相だったチャーチルは、フランスに何度も「専守防衛」の弱点を警告していたが無視されていた。 つづく ※日本人はこの映画の延長線上に黄色人種の大日本帝国が存在した事を決して忘れいてはならない! |
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関東軍・対ソ連軍に立派に立ち向かった大和民族! |
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2018・4・8 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必読記事! 産経ニュース 要塞を死守せよ! 関東軍の決死の反撃、ソ連軍は大混乱に陥った |
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「記事内容」 関東軍最後の戦い(2) 虎頭要塞から発射された15センチ加農(カノン)砲の砲弾が次々に満ソ国境のウスリー河を越え、対岸のソ連軍陣地で炸裂(さくれつ)する。 41センチ榴弾(りゅうだん)砲は20キロ離れたシベリア鉄道の関連施設を粉砕。 30センチ榴弾砲も火を噴き、対岸のトーチカなどを破壊した。 突然のソ連侵攻からおよそ半日が過ぎた昭和20年8月9日午前11時、満州東部の要衝で、関東軍が反撃に転じたのだ。 高度に機械化された敵の大軍に対し、要塞に立てこもる関東軍の第15国境守備隊は、兵力寡少ながら士気も練度も高かった。 猛虎山の主陣地で敵情捜索にあたった監視隊員の戦闘記録によれば、要塞の重砲はソ連軍に一泡も二泡もふかせたようだ。 とくに41センチ榴弾砲の威力はすさまじく、ウスリー河にかかるイマン鉄橋に命中、極東ソ連軍の生命線ともいえるシベリア鉄道を一時不通にした。 同日未明の5時間にわたるソ連軍の先制砲撃で要塞周辺の山肌は深く削り取られたが、地下に構築された鉄筋コンクリートの陣地は、健在だったのである。 思わぬ反撃に、ソ連軍陣地は大混乱に陥った。 × × × 守備隊は夜になると、斬り込み攻撃を敢行した。 要塞の各陣地から小部隊が飛び出し、近くまで浸透していたソ連軍の狙撃部隊を襲撃、爆弾を抱えた兵士が戦車に体当たりして擱座(かくざ)させた。 一方、ソ連軍は明くる10日に爆撃機を投入、上空と地上から猛烈な砲爆撃を加えた上で、11日午後6時、圧倒的な火力を背に狙撃部隊が総攻撃を仕掛けてきた。 これに対し守備隊は決死の斬り込み攻撃で応じ、戦力がはるかに上回るソ連軍を撃退した。 13日には、要塞を見下ろす高所にソ連軍が続々と進出、奪還をはかる守備隊との間で激しい白兵戦が展開された。 守備隊陣地の一つ、臨江台をめぐる戦闘の様子を、前出の監視隊員がこう書き残している。 「敵が小臨江台の一番高い所を狙って攻撃し、これを占領して赤旗を掲げると、(守備隊の)小隊は下の方から攻め上りこれを奪回する。幾度となくこのような攻防戦が繰り返された。(中略)十三日夕刻、例によって薄井見習士官は抜刀指揮して逆襲を敢行し、陣地頂上に駆け上ったところを、敵の手榴弾(しゅりゅうだん)が命中しついに倒れた。彼は文字どおり七生報国の念願を果たし、弱冠二十二才にして臨江台の土と化した」 圧倒的な火力をもって次々に攻め寄せるソ連軍に対し、何度も、何度も立ち上がる守備隊将兵-。 腹部に銃弾を受け、要塞の仮包帯所に運び込まれた砲兵隊中尉は天に叫んだ。 「おれは死なないぞ、もう一度やる」 × × × 戦っているのは、将兵だけではなかった。 ソ連侵攻の9日以降、猛虎山陣地には約300人の、平頂山陣地には約150人の在留邦人が避難しており、婦女子を含め率先して負傷兵の看護、弾薬の搬送、炊事などに従事した。 速射砲中隊所属の兵士がつづった戦記によれば、要塞外の作業で 「敵が襲撃して来たらどうするか」と話し合っていた兵士らを、看護婦のひとりが「そのときは突っ込めばよい」と叱咤(しった)激励したという。 だが、所詮は多勢に無勢である。 ソ連軍が無尽蔵ともいえる兵力を投入してくるのに対し、孤立無援の守備隊は補給の手段がなく、戦力は日増しに激減した。 やがて虎頭要塞は、壮絶な最期を迎えることになる-。 ◇ 【参考・引用文献】 ○防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社) ○平田文市編『ソ満国境 虎頭要塞の戦記』(全国虎頭会事務局) ◇ 加農(カノン)砲と榴弾砲 カノン砲は長い砲身が特徴で、高初速の砲弾を水平に近い弾道で発射し、主に遠距離の目標物を直接狙って破壊する。 一方、榴弾砲は砲身が短く、山なりの弾道で敵陣地などを攻撃する。 山地などの遮蔽物で目標を直接狙えない場合に威力を発揮し、敵の歩兵や輸送車などを制圧する間接射撃に有効である。 ただし第二次世界大戦以降、長砲身の榴弾砲が出現し、カノン砲との区別は事実上なくなっている。 |
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英米が仕組んだ満洲侵攻・白人を分かっていなかった大和民族! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・4・7 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必読記事! 産経ニュース 熾烈を極めたソ連軍の砲撃 関東軍は完全に不意を突かれた |
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「記事抜粋」 関東軍最後の戦い(1) 中国黒竜江省虎林市の郊外、中露国境のウスリー河を望む丘陵の地下に、約80年前につくられた巨大なコンクリート建造群が今も残る。 虎頭要塞-。 第二次世界大戦の直前、まだ物資が豊富な時代に4年余の歳月をかけて完成した、関東軍の地下要塞だ。 猛虎山、虎東山、虎北山、虎西山、虎嘯(こしょう)山、平頂山の6つの陣地で構成され、主陣地猛虎山の地下数十メートルには鉄筋コンクリートのトンネル網が縦横に延びる。 大戦初期、要塞には東洋最大の41センチ榴弾(りゅうだん)砲1門、射程50キロの24センチ列車砲1両、30センチ榴弾砲2門、24センチ榴弾砲2門、15センチ加農(カノン)砲6門が設置され、第4国境守備隊8000人がソ連軍の侵攻に備えていた。 だが、戦局の悪化にともない守備兵力の大部分が他の戦線に転用され、終戦直前の昭和20年7月に再編制された第15国境守備隊の兵力はわずか1400人にすぎなかった。 × × × 同年8月9日午前零時、この虎頭要塞に向けて、戦力十倍以上のソ連軍部隊が突如砲撃を開始した。 その瞬間を、主陣地から離れた地点で警戒任務についていた七虎林監視隊の後藤守少尉が、こう書き残している。 中略 突然のソ連侵攻を受け、満州の首都新京(現中国吉林省長春市)にある関東軍総司令部は当初混乱したが、午前6時、虎頭要塞を含む国境の各部隊に向けて、ついに「侵入し来る敵を破砕すべし」の作戦命令を発令する。 準備を整えた要塞の各砲が、午前11時を期して一斉に火を噴いた-。 ◇ 【参考・引用文献】 ○防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社) ○平田文市編『ソ満国境 虎頭要塞の戦記』(全国虎頭会事務局) ◇ ソ連侵攻 日本とソ連は昭和16(1941)年4月、相互の領土保全や不可侵などを定めた日ソ中立条約(有効期間5年)を締結した。 しかしソ連は20年4月、日本が求めていた同条約の延長を拒否した上、同年8月9日午前零時、有効期間が残っていた同条約を破り、突如として満州に侵攻した。 関東軍もソ連の侵攻を予想していたが、早くても秋以降になると楽観しており、戦術的にも戦略的にも急襲を受ける形になった。 関東軍 日露戦争後、日本の租借地となった中国・遼東(りょうとう)半島南端の関東州と南満州鉄道(満鉄)の権益保護のため、中国東北部に駐屯した日本陸軍の部隊。のちに満州全域を管轄し、ソ連軍と対峙(たいじ)するため精鋭が集められた。 しかし南方戦線が悪化した昭和18年以降、精鋭部隊が次々と引き抜かれて弱体化。 終戦前には、ソ連の侵攻兵力が兵員157万人、火砲2万6100門、戦車・自走砲5500両、航空機3400機だったのに対し、関東軍は兵員70万人ながら3割強は補充兵で、火砲1000門、戦車200両、航空機200機にすぎなかった。 ※教訓・大和民族は大和民族だけしか信じてはならない! アメリカ人が草案した日本国憲法を守ろうと画策する反日日本人があるが、彼等は嘘を多用し日本国を貶めているが、果たして大和民族なのだろうか? 違う気がしてならない。 |
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※ 政治問題 ※ アメリカが嘘で汚した大東亜戦争・硫黄島追悼式に何故、アメリカ軍が? |
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2018・4・3 政治部 大橋拓史 【外交安保取材】 視点が外交安保は間違いだろう! 産経ニュース 慌ただしい遺族らの硫黄島巡拝 誰のための慰霊式か…長過ぎた政治家の追悼の言葉 |
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「記事抜粋」 先の大戦で激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)で3月24日、19回目となる日米合同の戦没者慰霊式が行われた。 普段は民間人の立ち入りが禁止されている硫黄島だが、慰霊式の日は政府がチャーター機を手配し、遺族らも島に上陸ができる。 島の各所に建てられた慰霊碑を前に、遺族らは戦死した家族に手を合わせ、思い思いの時間を過ごしたかったのではないだろうか。 しかし、実際は時間の制約から、端から見ても慌ただしい巡拝だった。 それに比べて、式典での政治家の追悼の言葉が長過ぎた感は否めない。 日米合同式典では小野寺五典防衛相(57)、加藤勝信厚生労働相(62)のほか、岡本三成外務政務官(52)、硫黄島問題懇話会会長を務める自民党の逢沢一郎元国対委員長(63)が追悼の言葉を述べた。 硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将の孫で、遺族らでつくる硫黄島協会の遺族代表、自民党の新藤義孝元総務相(60)を含めた5人の政治家に続き、同協会の寺本鉄朗会長が式辞を述べた。 逢沢、新藤両氏は各5分、小野寺、加藤両閣僚は約2分、岡本氏は2分半をかけて、それぞれの追悼の言葉を読み上げ、演台までの移動時間などを含めると、日本側のあいさつで約25分を要した。 中略 敵国同士だった日米が合同で行う慰霊式が持つ「和解」の意味は十分理解できるが、限られた時間の中で計45分も追悼の言葉が必要だったのだろうか。 帰りの飛行機の出発を遺族らが機内で待つ中、大幅に予定時刻から遅れて硫黄島の空港に戻ってきたのも、議員団一行だった。 参考 硫黄島 天皇陛下訪問で怪奇現象が鎮まった。 ※何故、遺骨収集をやらないのか? 反日日本政府の薄汚い意図を感じる。 硫黄島は民間人立ち入り禁止! 未だ、アメリカ軍の占領地か? アメリカ軍人の参加に意味と意義があるのか? 慰霊に政治を持ち込むな! 政府は口を出さず銭と交通機材だけ提供しろ、政治家が参加すると汚れそう! 嘘つき安倍総理は滑走路を剥がし大日本帝国皇軍兵士の遺骨収集をすると約束したが、これも大嘘なのか! |
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戦後の日本政府が隠す日本の真実の歴史! |
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2018・4・1 GHQメンバーが記した朝鮮の認めたくない真実 |
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「コメント」 チャンネル復活のため、テスト上げです。 以前の動画のリメイク版です。 ※戦後の日本政府は日本人に隠す日本の真実! |
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歴史の重み・御前会議 | |||||||||||||||||||||||||||
2018・4・1 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土日掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必見記事! 産経ニュース 軍部を叱責した天皇 かくて最初の聖断は下された 2018・3・31 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土日掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必見記事! 産経ニュース 第1回御前会議 形勢を左右した枢密院議長の発言 |
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「記事抜粋」 大日本帝国最後の一週間(6) 昭和20年8月10日午前2時過ぎ 《(昭和天皇は)議長の首相より聖断を仰ぎたき旨の奏請を受けられる。天皇は、外務大臣案を採用され、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞くも、計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑(かんが)みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる。ついで、股肱(ここう)の軍人から武器を取り上げ、臣下を戦争責任者として引き渡すことは忍びなきも、大局上三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案にてポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる》(昭和天皇実録34巻34頁) × × × 聖断は下った。 御前会議の出席者は静かに起立し、退席する昭和天皇を見送った。 この時の様子を、内閣書記官長として陪席した迫水(さこみず)久常が、こう述懐する。 「何という畏(おそ)れ多いことであろう。御言葉の要旨は我が国力の現状、列国の情勢を顧みるときは、これ以上戦争を継続することは日本国を滅亡せしむるのみならず、世界人類を一層不幸に陥れるものなるがゆえに、この際堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、戦争を終結せんとするものであるという主旨であった。(中略)この御聖断によって会議は結論に到達した。真(まこと)に未曾有(みぞう)の事である。一同陛下の入御を御見送り申し上げ、粛然として満感を胸に退出した」 中略 ◇ 三国干渉時の明治天皇の御決断 1894~95(明治27~28)年の日清戦争で勝利した日本は、清国との講和条約により遼東半島の割譲を受けたが、これに反発するロシアが領有を放棄するよう日本に勧告。 ドイツとフランスも追随した。 日本は御前会議を開いて対応を協議し、イギリスなどに働きかけて3国の干渉を排除しようとしたが、武力を誇示するロシアの圧力に抗しきれず、遼東半島の返還を決定。 明治天皇が詔勅で国民に告げた。 その後ロシアは、日本が放棄した遼東半島先端の旅順を租借地とし、中国東北部(満州)へ勢力を広げた。 日本の世論は激高し、 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに、ロシアに対抗できる国力の増強が進められた。 ※厳しい当時、天皇陛下のご聖断と占領下の行動がヘタレナ今の政治家にとれるだろうか? 大東亜戦争前、陛下に使えた政治家と役人は国内の政治情勢(コミンテルンのスパイ)を具にご報告申し上げいたのだろうか? (2) 「記事抜粋」 大日本帝国最後の一週間(5) 昭和20年8月9日深夜、皇居の地下防空壕・御文庫附属室に集まった政軍首脳は、身を固くして昭和天皇を待った。 同日未明にソ連軍が満州に侵攻、正午前には長崎に原爆が落とされ、国内外の戦争被害が急拡大している。 ポツダム宣言を受諾して終戦するか、より多くの条件が認められるまで抗戦するか-。 これから日本の運命を決める天皇臨席の最高戦争指導会議、すなわち御前会議が始まるのだ。 つづく 「本日突然のお召しにて何ら腹案もなく出席致しました。しかし状況はきわめて窮迫しておりますがゆえに、私の意見を申し述べます」 平沼は語気を強めた。 「外務大臣の趣旨に同意であります」 これで、外相案への支持表明が平沼、東郷、米内の3人、不支持表明が梅津、豊田、阿南の3人。 いよいよ聖断を下す環境が整った。 首相の鈴木は、あえて自分の意見を明らかにはせず、最後にこう言った。 「皆じゅうぶん意見を吐露したものと認めます。しかし意見の一致を見るに至らなかったことは遺憾であります」 そして静かに席を立つと、昭和天皇の前に進んで深く頭を下げた。 「外務大臣案によるべきか、または四条件を付する案によるべきか、謹みて御聖断を仰ぎます」-(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載) ◇ 【参考・引用文献】 ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会) ○池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版) ◇ 最高戦争指導会議 政府と軍部のトップが連絡調整を強化し、一元的な戦争指導を行うための会議。 日中戦争が勃発した昭和12年、近衛文麿内閣のもとで発足した大本営政府連絡会議を前身とし、先の大戦終盤の19年8月、最高戦争指導会議と改称された。 構成員は首相、外相、陸海両相、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)で、戦争指導の根本方針を策定。 また、国家の重大事には首相らの要請で天皇が臨席することもあり、その場合は御前会議と呼ばれた。 ※こういう記事はありがたい、産経に感謝! こういう記事を見る度に想い出す! 幼心に父(満洲出兵を経験)に「日本は何故、満州に留まらず南進したのか?」と尋ねたのだが、父は「どうしてかのう・・・」とぽつり、明快に答えてくれなかった。 今思えば幼子の私、GHQの指示で馬鹿な日本政府が言論統制を敷いていた頃の話である。 だが、この頃の先生は過ちも起こさず、立派だった。 間違いなく日本人教師ばかり、父兄も生徒も皆、尊敬した人物ばかりだったが、今思えば貧しかったが、子供達は喧嘩もしていたが皆、幸せだったと思う。 今の子供(小中学生)は幸せなのだろうか? |
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ようやく公開された『裏切られた自由(上・下)』! |
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2018・3・31 (1/2ページ) 草思社編集部・碇高明 【編集者のおすすめ】 産経ニュース 『裏切られた自由(上・下)』 フーバーが20年かけ完成させた回顧録…封印されてきた戦争の真実 |
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「記事内容」 □『裏切られた自由 フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症(上・下)』 本書は31代米大統領、ハーバート・フーバーが20年の歳月をかけて完成させた第二次世界大戦の回顧録です。 原書は1千ページを超える大著で、日本語版では上・下巻に分けての刊行になりました。 スターリンと手を組んだルーズベルト外交を 「自由への裏切り」と断罪した本書は、2011年にフーバー研究所から刊行されると大きな反響を呼びました。 日本語版も刊行以来、事前の予想をはるかに上回るペースで版を重ねています。 フーバーが本書の刊行を決意したきっかけは、真珠湾攻撃のニュースでした。 フーバーは日米開戦の翌日、友人に宛てた手紙の中で 「日本というガラガラヘビに(米国が)しつこくちょっかいを出した結果、ヘビが咬(か)みついた」という表現で、米外交を批判しています。 ※ガラガラヘビは無かろうに・・・原住民を大虐殺しアメリカ大陸を乗っ取った白人(アーリア人=シナ人+朝鮮人)、黒人奴隷売買で財を成した守銭奴、残虐極まりない大嘘吐きのアメリカ人には言われたくない! さらに戦後、東京でマッカーサーと会談した際には 「日本との戦いは狂人(ルーズベルト)が望んだこと」という点で合意しています。 ※大東亜戦争の元起こしは大英帝国の極度の人種(日本人)差別主義者であるチャーチル! このように、本書の記述には、従来の戦勝国史観に根本的な見直しを迫る視点が多数含まれています。 それは、あの戦争における日本側の立場を擁護することにもつながるのですが、強調しておきたいのは、フーバーは決して日本贔屓(びいき)の政治家ではなかったという点です。 彼の経歴や政権担当時のスタッフを見れば、むしろ逆であった可能性が高いでしょう。 しかし、そのような人物の著作であるからこそ、本書の記述には大きな価値があります。 戦後封印されてきた歴史の真実がここにあります。 (ハーバート・フーバー著、ジョージ・H・ナッシュ編、渡辺惣樹訳/草思社・各8800円) ※大日本帝国は日独=(反日)伊の三国同盟さえ無ければ・・・今考えても悔やまれてならない。 嘘つき安倍総理始め親シナの二階、親シナの反日日本人はシナを無視できない様だが、シナ人の正体を知っているのだろうか? 日本の政治家は二度と「へま」をして欲しくないものだ! アメリカとシナの戦争犯罪を隠す目的で蒋介石とマッカーサーが罪を捏造し下した真っ赤に染まった東京国際軍事裁判判決がいつの日か、近い将来、見直される事を心から願っている。 人類で最も優秀な日本人よ、史実を学べ! |
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米巡洋艦「ジュノー」発見 |
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2018・3・21 チャンネル桜 【Front Japan 桜】出会い系前川、なぜ学校に呼ぶ? / 年金情報、中国に流出 / ハーグ条約に日本人は従うべきなのか? / 「サリバン5兄弟」戦死のショック[桜H30/3/21] 2018・3・20 産経ニュース 5兄弟戦死の米巡洋艦「ジュノー」発見 南太平洋でポール・アレン氏の探査チーム (2) |
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「放送内容」 キャスター:髙山正之・saya ■ ニュースPick Up ・ソロモンに眠る米軍艦ジュノー~「サリバン5兄弟」戦死のショック ・ハーグ条約に日本人は従うべきなのか? ※日本人の価値観さえ放棄した嘘つき安倍総理! ■ 出会い系前川、なぜ学校に呼ぶ? ※愛知県は犯罪多発地域、教育委員会は左翼、不良元役人前川喜平を使い無垢な生徒を洗脳し愚民にしている日本の最前線である。 ■ 年金情報、中国に流出 (2) 「記事内容」 AP通信などによると、先の大戦中の1942年に日本軍に撃沈された米巡洋艦「ジュノー」の残骸が南太平洋の海底で見つかったと、米マイクロソフトの共同創業者、ポール・アレン氏が発表した。 沈没艦を探査しているアレン氏のチームが探査機を使い、17日に確認したという。 ジュノーは1942年11月の第三次ソロモン海戦で日本軍の潜水艦伊26の雷撃を受け、沈没した。 戦死した乗組員の中に後に「サリバン兄弟」として有名になる5人兄弟がおり、米海軍が親族を分散配置するきっかけになった。 |
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日本人よ、大日本帝国の史実を知れ! |
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2018・3・17 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】 突然のソ連侵攻に狼狽する軍部 そのとき、天皇が敢然と動いた |
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「記事抜粋」 大日本帝国最後の一週間(1) 漆黒の闇の中、大粒の雨が大地を激しく打っていた。 国境付近に集結した数十万のソ連軍を照らす月明かりはなく、戦車のエンジン音は雨音にかき消された。 昭和20(1945)年8月9日午前零時、危機の迫る満洲(現中国東北部)は、いまだ深い眠りの中にあった。 その1時間前、モスクワのクレムリンでは、駐ソ大使の佐藤尚武が顔面を蒼白(そうはく)にして、ソ連外相モロトフが読み上げる宣戦布告状を聞いていた。 「……即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス……」 佐藤は口元をゆがめ、無理に笑みを作ってみせた。 ここで抗議しても何も変わらない。 今は一刻も早く本国に知らせなければ。 「ただいまの通告を、外交特権で東京に至急打電したい。よろしいですね」 「もちろんだ」 クレムリンを辞去した佐藤は日本大使館に車を急がせた。 だが、開戦を告げる電報はソ連当局に妨害され、東京へは届かなかった。 × × × 満洲は、まだ眠っている。 首都新京(現吉林省長春市)の関東軍総司令部も、ひっそりとしている。 総司令官山田乙三は大連(現遼寧省大連市)に出張中で、留守を預かる総参謀長や高級参謀らは官舎で就寝中だった。 午前1時、当直参謀室の電話が鳴った。 「東寧(とうねい)及び綏芬河(すいふんが)正面の敵、攻撃を開始せり」 「牡丹江(ぼたんこう)市街は敵の空襲をうけつつあり」 満洲東部を守備する第5軍司令部からの緊急報告。 受話器を握る参謀の手が震えた。 続いて新京郊外が爆撃を受け、各方面軍からも被害報告が飛び込んでくる。 ついにソ連軍が日ソ中立条約を破り、東部、北部、西部の三方から一斉に攻め込んできたのだ。 つづく 宮内庁が平成2年以降、24年の歳月をかけて編集した『昭和天皇実録』に、こう記されている。 8月9日 《午前九時三十七分、(昭和天皇は)御文庫において陸軍参謀総長梅津美治郎に謁(えつ)を賜(たま)い、戦況の奏上を受けられる。午前九時五十五分、御文庫に内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣に対し、ソ聯邦と交戦状態突入につき、速やかに戦局の収拾を研究・決定する必要があると思うため、首相と十分に懇談するよう仰せになる》(34巻31頁) 戦況の奏上を受けてから、戦局収拾の指示までわずか18分。 終戦を決意した昭和天皇に、迷いはなかったようだ。 つづく ◇ 産経新聞では戦後70年にあたる平成27年4月~28年7月、昭和天皇の87年の生涯をたどるノンフィクション 「ふりさけみれば」を紙面で長期連載しました。 これをウエブ用に再編集し、毎週土曜と日曜に連載します。 ◇ 満州国 関東軍などの画策により、中国東北部に1932年に樹立された国。 清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が執政として元首となり、34年から帝政がしかれた。 しかし関東軍が強大な影響力を持つ事実上の傀儡(かいらい)で、中国や米英仏など多くは国家として承認しなかった。 45年8月の日本の敗戦とともに崩壊、消滅した。 関東軍 1904~05年の日露戦争後、日本の租借地となった遼東(りょうとう)半島南端の関東州と南満州鉄道(満鉄)の権益保護のため、中国東北部に駐屯した日本陸軍の部隊。 当初は関東州を統治する関東総督府の守備隊だったが、19年に関東軍司令部として独立した。 一部の参謀らが日本政府や陸軍中央を無視して暴走することがあり、28年の張作霖爆殺事件、31~33年の満州事変などを画策。 日本の国際孤立を招いて先の大戦につながる原因をつくったとされる。 ※戦後の反日日本政府が捏造した嘘がある! 杉原千畝英雄説は反日日本政府が杉原千畝を英雄に仕立て上げた大嘘、もう一つは山本五十六を英雄に仕立て上げた大嘘がある。(小学生の時、講堂で映画を見せられた!) 日本政府が未だに、大東亜戦争の総括をしない理由が、そこかしこに散りばめられた大嘘がバレるのを恐れての事であり、日本人を馬鹿にしている証でもあろう。 大日本帝国はハルノートを手にした時、何故、アメリカ政府に問い質さなかったのか? この謎が未だに解けずにいる。 ◇ 【参考・引用文献】 ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻 ◯日本国外務省、ロシア連邦外務省編『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』(外務省) ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会) ◯佐藤尚武『回顧八十年』(時事通信社) ◯防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社) ◯木戸日記研究会校訂『木戸幸一日記』下巻(東京大学出版会) ※天皇陛下を頂点に頂く世界一優れた大和民族が暮らす大日本帝国であった。 大和民族が統治する大日本帝国本土や満洲国、台湾、朝鮮、パラオを含む南方諸島を目にした米英欄は白人が想像もし得ない大日本帝国の国創りと統治能力の高さを知った。 奴隷を有する米英欄は大日本帝国と白人統治の余りにも違う統治方法に驚き恐れをなしたのであろう。 アジアの黄色人種を一括りにし、下等民族と蔑んで来た白人国家群だが、日清戦争とロシア帝国に圧勝し、第一次世界大戦に参戦、大日本帝国海軍の雄姿を世界に披露、挙句に人種差別撤廃を世界に訴えた大日本帝国を憎み始めた。 このまま大日本帝国が存在し続ければ、間違いなく白人国家の脅威になると白人国家群は悟ったのであろう。 心根が違う大和民族はそれに気づかず、懸命に国創りに邁進していた結果がABCD包囲網だが、この時、既に大日本帝国は白人国家軍からシナ大陸と満州国で戦争を仕掛けられていたのである。 |
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米空母「レキシントン」の残骸 |
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2018・3・7 共同 産経ニュース 米空母「レキシントン」の残骸 豪州沖で発見 珊瑚海海戦で旧帝国海軍と史上初の空母戦を展開 |
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「記事内容」 太平洋戦争中の1942年、旧日本軍との戦闘で沈没した米空母「レキシントン」の残骸が4日、オーストラリア沖の珊瑚海で見つかった。 米資産家ポール・アレン氏が6日までに、自身の調査チームが探査機を使い、北東部クイーンズランド州から800キロ沖の水深約3千メートルの海底で発見したと明らかにした。 米メディアなどによると、 「レディ・レックス」の愛称を持つレキシントンは42年5月、史上初の空母戦とされる 「珊瑚海海戦」で旧日本軍の攻撃により激しく損傷。 航行不能となり、別の米軍艦が意図的に沈没させた。 2千人以上の乗組員が救助されたが、200人以上が死亡、航空機35機を積んでいた。 珊瑚海海戦では、レキシントンなどが旧日本軍によるオーストラリアやニューギニアへの進攻を阻止する役割を果たしたとされている。 |
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策士・チャーチル! |
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2018・2・16 (1/3ページ) ロンドン=岡部伸 産経ニュース チャーチル元英首相、見誤った日本観 マレー作戦を予測→日本軍を過小評価しシンガポール陥落 |
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「記事内容」 日米開戦の発端となった1941年12月8日の真珠湾攻撃とほぼ同時にマレー半島に日本軍が上陸し、わずか55日間で南下した後、シンガポールを陥落させてから15日で76年を迎えた。 当時のチャーチル英首相が、マレー作戦をはじめ日本の軍事作戦を予測する情報がありながら日本軍の実力を過小評価し、 「大英帝国史上最大の悲劇であり、大惨事」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)を招いたことが、英国立公文書館所蔵の英内閣合同情報小委員会報告書などで示されていた。 チャーチルの誤った日本観が英国による植民地支配の終焉の始まりとなったといえそうだ。 同報告書によると、米ワシントンで日米交渉が佳境に入った1941年11月18日に同小委員会が開催され、 「日本の意図」として、「日本政府は英米と戦火を交えるリスクを冒す決断に至っていないが、交渉が決裂すれば、英、米、オランダと戦端を開く進攻作戦を行う判断を迫られる」と日本の軍事作戦を予測した。 中略 ◇ 「固定観念ぬぐい去れず」 ロンドン大経済政治学院(LSE)のアントニー・ベスト准教授 英国は、日本軍が米国との交渉が決裂すれば、タイ進駐を手始めにシンガポールを攻略するマレー作戦や蘭印作戦を準備していることを事前に正確に把握していた。 戦争回避ではなくルーズベルト米大統領にアジア、欧州で英国支持を確約させることを外交目標としていたチャーチル英首相は日本の軍事作戦を予測しながら、 「日本軍には英国を攻撃する力はない」と実力を過小評価する固定観念をぬぐい去れず、シンガポール陥落などの大惨事を招いた。 ■マレー作戦 1941年12月8日、日本陸軍が英領だった旧マラヤ北部のコタバル(現マレーシア)に上陸し、マレー半島タイ領のシンゴラ、パタニにも上陸して英軍と戦闘を開始。 英国の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈した。 作戦の目標は、英国の重要な植民地とされていたマレー半島の南に浮かぶシンガポールだった。 強力な要塞を築いていたため、日本軍は海上からではなく防御の弱いマレー半島を南下し、42年2月15日には英マレー軍司令官のパーシバル中将が日本陸軍の山下奉文(ともゆき)中将に無条件降伏した。 ※チャーチルは人種差別の権化、ルーズベルトに参戦を促した事が、大日本帝国を大東亜戦争に踏み込ませた。 |
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日本は国難に直面している! |
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2018・2・12 チャンネルくらら 特別番組「景気回復を邪魔するものの正体とは?~日本は誰と戦ったのか?」安達誠司 江崎道朗【チャンネルくらら・2月12日配信】 |
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「放送内容」 ナシ 「投稿紹介」 1)昨日の講演会では今上天皇陛下や皇室の貴重なお話をありがとうございました。 日本では共産主義や社会主義が弱者救済の理想的な手段というまやかしがまかり通っていることを何とか払拭したいものです。 またPBをとやかく言いだしてから日本の景気が長期低迷している実態こそ、PB重視の政策が誤っていた証拠だと思います。 ※日本は戦後、反トランプ勢力の世界統一派(反日共産主義者)の監視下にあり、世界統一派の意向次第で日本の総理の椅子さえ吹っ飛ぶ状況にある。 考えてみれば、日本は今、大東亜戦争前に類似しているが、トランプ大統領の登場で日米関係を変える環境が到来するのだろうか? |
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日本人の誇り、大東亜戦争! |
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2018・2・5 産経ニュース ゼロ戦だけでない! 日本海軍の傑作機、フォトアーカイブで鮮明に |
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「記事内容」 「月光」 「雷電」 「強風」 「天山」 「流星」 「彗星(すいせい)」…。 いずれも日本海軍が開発した戦闘機、攻撃機、爆撃機だ。 海軍の名機としては、長大な航続力と優れた格闘性を持つ零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が世界にその名を知られるが、ほかにも先の大戦中、独創的な軍用機が次々と生み出された。 飛行艇としては世界最高水準だった「二式大艇」、戦闘機並みの高速を誇る双発爆撃機「銀河」、大戦終盤には海軍最強機といわれる局地戦闘機「紫電改(しでんかい)」が登場、米軍機との間で熾烈(しれつ)な空中戦を繰り広げた。 実戦には間に合わなかったものの初の国産ジェット機である特殊攻撃機「橘花(きっか)」や、折りたたみ式で伊400型潜水艦に搭載する特殊攻撃機「晴嵐(せいらん)」の開発にも成功。 一方でロケットエンジンの「桜花(おうか)」が特攻兵器として考案され、実戦に投入された。 老舗軍事雑誌の月刊「丸」編集部には、旧軍関係者などから提供された海軍機の貴重な写真が多数保管されている。 その数、およそ2500枚。 「丸」編集部の協力により昨年12月にフォトアーカイブ「歴史写真館」を立ち上げた産経新聞写真報道局では、これら資料的価値の高い写真のアーカイブを開始。 順次デジタル化している。 「丸」編集部でも海軍機の写真と詳細なデータ、軍用機事典を盛り込んだ 「第二次世界大戦 日本海軍機オールカタログ」(潮書房光人社・2300円)を発売したばかりだ。 旧日本軍の開発兵器などについては戦後、長所を議論すること自体がタブー視され、いまだ十分には解明されていない点も少なくない。 写真などを広く公開することで、さらなる分析や研究が進むことが期待される。 ◇ 写真を実費にて販売いたします。・http://chizai-visual.sankei.co.jp/ (電)03-3275-8775(平日11時~18時) |
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反日日本政府と反日害務省は動け! |
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2018・1・27 ムンバイ=森浩 産経ニュース インドの「中華民国」軍墓地 中国が観光地化要求で波紋 台湾は「歴史的意義をおとしめる」と反発 |
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「記事内容」 第二次世界大戦中、当時の中華民国からインドに派遣された将兵が眠る共同墓地について、中国が観光地として開放するようインド州政府に要求して波紋を広げている。 中国から観光客を呼び込み、愛国心高揚のモニュメントにしたい意向があるもようだ。 この動きに墓地の保存に携わってきた台湾側は 「歴史的意義をおとしめる」と反発。 インド側の判断が注目される。 共同墓地は、インド東部ジャルカンド州ランガルにあり、1944年に中華民国軍の将校によって設けられた。 現地で死亡した将兵ら667人が埋葬されている。 第二次世界大戦で中華民国は、ビルマ(現ミャンマー)で英国軍を支援するために「中国遠征軍」を派遣しており、その一部がランガルに駐留したという。 在コルカタ中国総領事館の公式サイトは、42年から45年まで約10万人がランガルで訓練し、 「強大な戦闘力を持つ軍隊」となり、日本軍に対し「輝かしい軍功を挙げた」と紹介している。 観光地化の動きが持ち上がったのは、今月12日だ。 同領事館の馬占武総領事ら中国関係者5人が墓地を訪問。 馬総領事は墓石に花を手向け「世界平和と人類の正義のために戦った皆さんを忘れることはできない」と話した。 その後、馬総領事らは地元政府関係者と会談し、墓地を開放して観光客の訪問を可能とするよう求めたという。 中国側の動きに台湾はすぐに反応した。 共同墓地は台湾がインド側の了解を得て、保存に携わってきた経緯があるためだ。 2011年には台湾が改修のための資金を拠出した経緯もある。 台北駐インド経済文化代表処(大使館に相当)の田中光代表は「埋葬されている兵士はすべて中華民国の国民だ」と反論した。 田代表は 「観光地化は共同墓地の荘厳な歴史的意義をおとしめるものだ」と反発しており、地元政府に対して中国側の要望を認めないよう求めている。 ※シナは大東亜戦争を利用し、中華民国(台湾)を飲み込もうとしている。 |
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大日本帝国とアメリカ、それとコミンテルン! |
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2018・1・13 ユーチューブ ≪AI朗読≫コミンテルンの謀略と日本の敗戦[江崎道朗] |
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「コメント」 ナシ ※日本人必見動画! 大日本帝国の轍を踏むな、日本人! 日本はコミンテルンに犯されたアメリカとコミンテルンが育てたシナ共産党は日支国交正常化後、日本共産化計画を実行中、日本に於いてあらゆる分野において工作活動を続けている。 国内でこれに呼応しているのが、二階等の親シナの政治家やNHK始め朝日新聞等の反日メデア、東大文系教授を始めとする教育界、経団連、野党、在日韓国朝鮮人である。 |
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大東亜戦争を闘った大日本帝国と英霊、戦果を誇れ日本人! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・1・10 (1/4ページ) 【東海の議論】 産経WEST ゼロ戦展示で論議「戦争美化になる」「史実を隠すな」 愛知県が“苦肉”の暫定展示 |
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「記事抜粋」 国産初のジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」の開発をきっかけに航空産業の発展を期して愛知県が昨年11月、豊山町にオープンした航空博物館 「あいち航空ミュージアム」に、第二次大戦時の戦闘機「ゼロ戦」の復元機が展示された。 展示に際しては 「戦争賛美につながる」などと反対の声が出るなど議論もあったが、かつて世界の航空界をリードした技術の結晶として暫定公開にこぎ着けた。現代の若者にも人気を集める「ゼロ戦」。 訪れた人からは 「史実を隠してはならない」 「公開で戦争は絶対あってはならないと訴えることも大切」といった声が聞かれた。※シナ人と朝鮮人、アメリカに言え! 当時の最先端技術に関心 「史実を隠すな」 広い世代が関心 中略 展示に際し、大村秀章知事は 「当時の日本の航空技術の高さを象徴すると同時に、愛知で生まれた機体であり、展示にふさわしい。改めて平和や戦争について考える機会にしてほしい」と述べている。 人気を集めるゼロ戦だが、館内には、古今東西の名機の模型を並べた「名機100選」や飛行機作りの歴史が上映される3D大型シアター、飛行疑似体験ができるフライトシミュレーターなどもある。 運が良ければMRJの試験機も見られる名古屋空港の滑走路も屋上展望デッキから見渡せ、航空機の起源から最新の航空機までの歴史をたどることができる。 同ミュージアムは原則、火曜休館。 入館料は大人1000円、大学・高校生800円、小中学生500円。 学校利用の場合、小中学生とその引率者は300円。 なお、ゼロ戦の借り受け先の史料室の改装終了時期は未定で、返却も含め展示のゼロ戦の今後は決まっていない。 ※大東亜戦争に纏わる多くの嘘(リンチ・東京国際軍事裁判決)が事実が如くアメリカやシナ、韓国から流布されているが、大日本帝国は人類史上最も正しい戦争をした。 アジアの国々に多くの美談が今尚、地元の人々が語り継いでくれている。 美談を知らないのは日本人だけ、日本人は史実を知れ! 世界の反日国家はシナと朝鮮、アメリカの嘘つき国家だけ! 彼等の嘘に加担し日本人を騙しているのが反日日本政府(与野党の政治家と役人)と反日左翼日本人である。 台湾とパラオが何故、親日国なのか調べてみろよ! |
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アメリカ空軍による呉軍港空襲! |
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20181・9 (1/8ページ) 戸津井康之 【メガプレミアム】 産経WEST 赤い腹見せる空母、沈みながら機関砲撃ち続ける巡洋艦…“日本海軍の最後”呉軍港空襲 元海軍兵が見た地獄絵図 |
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「記事内容」 第二次世界大戦末期、広島県呉市の呉軍港は米軍による大空襲に見舞われた。 昨年公開され、ロングランヒット中のアニメ映画「この世界の片隅に」ではこの呉軍港空襲が克明に描かれる。 「戦艦『伊勢』や空母『天城』などが次々と目の前で撃沈していきました…」。 元海軍の山本重光さん(92)は当時、通信兵として空母「鳳翔(ほうしょう)」に乗艦。 停泊中の軍艦がほぼ壊滅する中、鳳翔が奇跡的に空襲を免れた理由を山本さんは「江田島の住民が迷彩シートなどで擬装してくれたおかげです」と語った。 擬装とは軍艦を島のように見せかけ敵機の目を欺くこと。 山本さんは一命を取り留めたが、目撃した光景は 「空一面が炎と煙で覆われた地獄絵図だった」と振り返る。 92歳にして初めて取材で語る証言はあまりにも衝撃的な内容だった。 呉軍港の惨劇 世界が恐れた空母「鳳翔」の真意!? 為す術のない撃沈 最後の抵抗を知る電信 奇跡的な生還 焼かれた軍艦旗 終わらなかった“戦争” 南洋の島へ! 少年兵の最上のお礼 1年後の「終戦」 中略 21年11月、山本さんの長い任務はようやく解かれ、帰宅を許された。 20年8月15日の終戦から1年以上も後になって初めて山本さんは故郷・三重へ帰還したのだ。 戦後、海外の戦地で戦った日本兵や海外で暮らしていた民間の日本人の中から、「自分たちは祖国に見捨てられた」という話をよく聞く。 確かにそういう人たちは少なくないかもしれない。 しかし、わずかに残された軍艦を修復し、山本さんのように戦後、一度も実家に帰ることなく、海外に取り残された日本人を日本へ連れ帰るための復員輸送に従事していた軍人たちがいたことを私たちは決して忘れてはならない。 (2017年9月27日、10月5日掲載) |
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絆・活躍した高砂義勇隊(台湾人) |
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2018・1・3 ユーチューブ 【感動 涙】日本と一つだったはずの高砂義勇隊は、その後一体どうなったのか?驚愕の・・【海外が感動する日本の力】【日本に生まれて良かった】 |
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「コメント」 ナシ 「投稿紹介」 1)戦後の国籍別の対応って思いっきり好意的に解釈すれば、台湾の人々、高砂族の英雄たちを徒に[戦犯国]の関係者にしないための方便だったのかも知れないね。 そして当時の日本政府にそこまでの余裕がなかったのも遠因かも知れないとは言うものの、義勇隊の将兵各位のご活躍を無にすることは後世を生きるものとしてあってはならない事。 武運拙く戦場に散華した将兵も今は等しく靖國に眠ってもらっている。 感謝と鎮魂の気持ち以外出て来ない。 それと同時に、これ以上靖國に眠る英霊の数を増やしてはならない。 戦争で失うものはあまりにも多いけれど得られるものは何もない。 ※守るものがあれば、命を賭して守るのが日本人! 英霊に学べよ、日本人! |
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